4つのテーマ別ブログ記事の更新情報に加え、テーマ外の脈絡のない内容をつぶやきのように綴っています。以前のタイトル「意味の周辺」は2011年12月以降、http://imimemo.blogspot.com/ にて更新を続けています。「意味の周辺」該当記事に対するコメントはhttp://imimemo.blogspot.com/ の該当記事に投稿して頂ければ幸いです。

「意味の周辺」記事

自然信仰という言葉で表現されているもの

shirasuten_s.jpg


一月ほど前、世田谷美術館で開催されていた白州正子生誕100年を記念する展覧会を見に行き、少し前に別のブログ「ミュージアムとガラスギャラリー訪問記」にその印象記を書いた。展示作品の印象とかそれらにまつわるあれこれを書いたわけだが、最後の方に付け足しのようにして次のように書いた。

―― 今回のこの展示は美術展としてはかなり異色である。「白州正子 神仏、自然への祈り」というタイトルの通り、白州正子の、といって良いのかどうか判らないが、神仏、自然への祈りというテーマであって展示物そのものではないという印象がある。この神仏、自然への祈り、というテーマは大きく重いテーマであると同時に今日的なテーマでもある。自然信仰というのは、この展覧会では特に日本人に特有の信仰心として取り上げられているが、日本とは違った形、あるいは問題を含んだ形で世界的な傾向でもある。これに関しては数年前、別のブログの記事 http://d.hatena.ne.jp/quarta/20071203#1196666713 で取り上げたのだけれども西欧の一部で「ポスト・キリスト教」と区分される宗教があり、そこではキリスト教の神がマザー・ネイチャーという女神に入れ替わっているという、米国の分子生物学者の著書がNYタイムズで紹介されていたのである。その後この件でその著書を読むとかそれ以上の詮索をしたわけではないが、気になるテーマであり、今回の、日本における自然宗教との比較という点でも興味深いテーマであると言える。――


という次第で、この引用から始めたい。


この引用の意図というのはつまり、自然への祈り、或いは自然信仰という言葉からだけ連想すると、世界的にそのような動きが何となく感じられるのは私だけではないだろうと、件のNYタイムズの諸表記事からも連想されるわけである。マザーネイチャーという言葉はそれ程ポピュラーではないが、とにかく世界的に、とくに欧米を中心として、見かけ上、自然を尊重するような政治文化的な機運の高まりがあることは確かであり、それが人々の一種の信仰心の変化に由来している部分があるように見る事ができると思われる。特に欧米で幾つもの自然保護団体が大きな勢力を持って活動している事もそうであるが、特に科学との関連で様々な確執や対立とともに妥協やなれ合いといったようなものが生じているような気がするのである。とにかくこの問題では世界的に科学と宗教との関係において、さらに政治とビジネスにも攪乱され、大いなる混乱期にあるとでも言えるのではないか。

このような世界的な傾向と対比して彼女の説く日本の伝統としての自然信仰を考えてみることも大いに意義があるような気がするのである。というのも、日本においても自然信仰や神道への関心が高まっているように見えるのも、前述の世界的な動向と繋がりあるいは共時性がない筈もないからである。

今回展覧会の図録は箱入りで、テーマ別の薄いパンフレットの集積になっていた。その中に「自然信仰」というテーマでまとめられたパンフレットがあり、それに掲載された著者の幾つもの文章から拾い上げてみると、白州正子の言う自然信仰の対象の具体例として上げられているのは富士山、奈良の三輪山、近江の三上山、那智の滝、あるいは日月山水図に描かれている山々― 著者はたぶん槙尾山といっている―であり、この山水図に描かれている日月などである。そこには次のように書かれている。
「現実に仏を描くことをさけ、日月山水で暗示するにとどめたのは、一つの発展であるとともに自然崇拝の昔の姿に還ったといえるかも知れない。」

という事は、もともと日本人の信仰は自然崇拝であるところに仏教がそれに取って代わったが、この絵に現れた精神では自然崇拝の昔に戻っているという事であろう。この時代に自然崇拝に戻ってそのままそういった信仰が続いていたのかどうか、その辺、著者は何とも言っていない。常識から見て、少なくとも外面的、見かけ上、仏教がその時代に消滅したわけでもないし、その絵も少なくとも意識的には仏教寺院の中で仏教的精神の下に描かれ、仏教寺院が仏教寺院であることを止めたわけではないのだから、無意識的、あるいは深層的に自然崇拝が続いて来たし続いているという事なのだろう。またそういった自然信仰が仏教と両立しないとされているわけでもない。

その自然崇拝の対象が山や瀧や太陽や月となるわけだが、山や瀧や太陽などの天体を崇拝するという事は結局、それらの対象が単なる物質であるだけではなく、心、或いは精神的なものを備えているという思想に繋がり、哲学的な基礎となっていると考えざるを得ない。これは生物、無機物を問わず心的なもの、あるいは霊的なものが備わっているとする、人類学で言うアニミズムにも繋がるし、哲学的には汎心論という立場とも繋がる。この問題についても先のマザーネーチャーに関して引用した筆者の別ブログの記事で、同様にNYタイムズの記事にちなんで触れている。http://d.hatena.ne.jp/quarta/20071203#1196666713

いずれにせよ、アニミズムにしても汎心論にしても世界的な広がりのあるもので、日本独特のものとは言えない。ではもう少し限定して山や瀧や太陽などの天体などはどうかといえば、これらは自然の一部ではあっても広大な土地や大地の一部であり、瀧にしても、ある程度の巨大さや荘厳さを備えたような特殊な存在である。こういう対象への崇拝にしても日本独特の伝統とは言えないだろう。ただ現在にもそれが生き続けているという点、あるいは復活、あるいは復権という意味で日本的であると言えるように思われる。またはそれらがより純粋な形で生き続け、復活してきていると言えるのかも知れない。と言うのは、先に触れた西洋におけるマザーネーチャー的なものは自然信仰に近いものであるとしても、何かより不純な形で、あるいは他の何らかの要素に紛れたような形で現れているのではないかという気がするのである。

例えば、ガイア理論というものがある。ウィキペディアによると次のように定義されている。「地球と生物が相互に関係し合い環境を作り上げていることを、ある種の「巨大な生命体」と見なす仮説である。ガイア仮説ともいう。」。これは「理論」と呼ばれているように科学上の仮説とされている。エコロジーの延長と言えるのだろうか。エコロジーにしても共生思想にしても科学思想とでも呼ぶべきもので、マザーネーチャーなる信仰はとにかく科学という形をとっているのではないかという印象があるのである。こういったことはキリスト教と科学の伝統による制約と関係がありそうに思えると同時に、政治経済、ビジネスの世界とも深く関わっていることは容易に想像できることだと思う。エコロジーやCO2温暖化説など、人によっては科学ではなくて宗教であるという見方があるのもある程度納得できるというものである

見方によっては逆に、科学が他の何ものか、一種の信仰によってゆがめられているという見方もできるのである。科学の立場から見れば科学の純粋性が犯されているようにも見えなくもない。しかし科学にしても本来の純粋な科学というものが存在し得るのかというとそういう純粋な科学はあり得ないようにも思われる。

・・・と、ここまで何とか思考を進めてきた段階でこれ以上、考察範囲を広げ詳細に論を敷衍しるだけの素養もなく論を前進させるだけの用意もゆとりもないので、今のところはこの辺りで止め置くしかなさそうである。

ただ一つ、言えることは科学とは何であるかという問題、科学に対する反省、宗教への反省、科学と宗教との関係、あるいは自然科学と文化の問題こそが今後の大きな課題であるという事ではないだろうか。この意味で日本人の自然信仰、と表現されているものに何か並々ならぬ期待のようなものを感じるのである。

*****************************
ひとまず今回はこれで終了というところだが、以下は蛇足で、脈絡もまとまりもない単なる断片、メモ・・・といったところ。

・・・というのも、エコロジーが倫理感に影響を受けていることは間違いないだろう。エコロジーが倫理的な人々、少なくとも建前上、倫理的な人々の拠り所であり、言ってみれば昔は信仰心の篤いことが人格の高さを証明するものであったところにエコロジーが入れ替わっているような面は否定できないであろう。悪く言えば偽善に利用されるという面、言い方を変えれば自己宣伝に利用されるという面もなきにしも非ずである。有名人がエコロジー活動をするのも、意識的か無意識的であるかに関わらずそういうところがある。マザーネーチャーについての本を書いた件の分子生物学者がマザーネーチャーがポストキリスト教であり、従来のキリスト教を置き換えるものになっているというのにはこういう意味がこもっているともいえる。そこには大いなる欺瞞もあり、欲望も悪徳も絡んでいるとも言える。といわば反宗教というか、倫理的に背徳的なものである。もう科学と宗教と政治とビジネス、それに倫理と背徳とがごちゃ混ぜになったような世界である。

・・・・折しも原発問題でマスコミとネットの世界でエコ思想が喧噪を極めている・・・・・

ところで、
最近はなぜか日本人論というのはあまりはやらないようだ。
しかし・・・例えば・・・今後の世界を切り開く思想と文化、といったものを提示できるのは日本人である・・・といった類の発言や意見を目にしたり耳にすることが多々ある。そういう思想や意見には特に現代の西洋文明と比較した上での日本人の自然観や自然信仰が念頭にあるものと思われる。そういうものに対する期待感といったものは私自身にも確かにある。
しかしそういう事を断言できる程でもない。

しかし、少なくとも現在の西洋流の新しい科学の傾向とも言えるエコロジー思想の矛盾や混乱を見ているとやガイア理論といったものは何かおかしく歪んだものがあることには。

これは単なる直感だが、現在のエコロジー思想というのは科学と宗教の間違った結びつきのような気がしてならないのである。こういう混乱を極めているエコ思想からみると日本的な自然信仰がなぜかすがすがしく見えることも確かなのである。

「意味の周辺」記事

政治とビジネスに取り込まれた科学

今日、大型書店内の科学書籍の売り場を見回して気付いたことだが、「物理学」や「生物学」などは伝統に従って以前のように分類されているのだが、なぜか「環境」という分野がいやに幅をきかせている。そこではいまだにCO2温暖化説の新刊書が溢れている。「環境」という分類の他に「農業・環境」という分類もある。こういうのは単に「農学」でいいのではないか。なぜわざわざ「環境」をつける必要がある?それに比べて地球科学系の分野は「宇宙・気象」という分類の配下の小項目として地学と地球化学があるのみで地球化学も地質学もない。普通に自然を尊重する立場からの感覚では「宇宙・地球科学」とでも題した分類の配下に、気象学も入るのではないかと思われるのだが。

あまりにも実用と実利に傾きすぎているのではないかという印象。もとより人間生活を離れた純粋な自然科学というのもあり得ないにしても、こういった傾向は今のあまりにも政治とビジネスに取り込まれてしまった科学の現状を示しているのではないかという印象を受ける。

機械工学や電気工学は早くから工学として自然科学そのものから分けられてきた。それに比べると現今の自然科学における「環境」ののさばり方には辟易するものを感じる。まだ少し前はこの種の分野は「環境工学」として工学分野に入れられていたのではないだろうか。現今では工学よりもむしろビジネスと政治に傾いてきた結果、工学から離れてきたのだろうか。それならばこの種のものはビジネス書と政治書の棚に入れてしまえば良いのではないか。

自然を愛し、自然を科学したいのであれば地球科学を学び研究すればよい。地球科学にもいろいろ分野がある。地球物理学、地球化学、地質学、気象学、等々。

環境という言葉は人間中心の不純な概念であることに気付くべきではないだろうか。環境の科学は勿論大切なことである。しかし環境と言う概念は自然とも地球とも全くことなること、エコロジーとも全く異なること、この辺の整理がなければ今後のの科学の真の発展はないのではないかと思えるのだが。

「意味の周辺」記事

なぜ「リテラシー」という言葉が良くないのか

これまで、どれだけの人たちの目に止まったかは分からないが、ツイッターで何度か、リテラシー、特になんとかリテラシーという言葉が嫌だということを衝動的につぶやいた。はっきりとなぜ嫌なのかということを言えなかったのだが、今日、はっきりとそういえる理由に気がついた。ひと一言で言って、この言葉は境界を引くことができないところ、引いてはいけないところに境界を引くから良くないのである。

本来の識字能力という意味で使われる限りはそんなに問題はないとは思うけれども、この意味でも本来は文盲と識字者の間にはっきりした境界を引くことはできない筈である。日本語の場合、何千という漢字をすべて読み書きできなければ文盲であるなどと言うことはできないだろう。しかし平かなを読み書きできるというだけではあまり役に立たず、本当に文字を知っているとは言えない。また文字を知っているだけで意味がわからなければ本当に読み書きできるともいえない。しかし一応、日本語の場合は義務教育で習う程度の言葉を知っていればリテラシーがあるという程度で合意が出来ているのだろうと思う。これが一種の比喩と言えると思うのだが、他の問題に用いれれて「なんとかリテラシー」という表現で用いられることになると、その境界を引くところというのが全く恣意的であり、発言する本人自信が分かっているかどうかさえ疑わしい。

とくに科学リテラシーという表現がよく使われるが、こういう言葉を使う人は自らや科学のどれだけの分野でどれほど深い知識をもっているか、そしてそのことを自覚しているか、そしてどういう基準でリテラシーの境界を引いているのかをはっきりと表現できるのであろうか。

これは科学と疑似科学という区別についても同様である。この種の論争では多くの場合、互いに相手の方を疑似科学だと言って非難しあうことで落ち着くことになる。売り言葉に買い言葉であるから、私は買い言葉を使う側に同情するが。

「意味の周辺」記事

『検証 陰謀論はどこまで真実か パーセントで判定』という呆れた新刊本

書店で表記の新刊本(文芸社)が目についたので手に取ってみた。

表題からして、おかしな本であると私には思える。というのは、もう一般的に通用するようになってしまった陰謀論という言葉自体、奇妙で無責任な意味不明の造語であると思われる上に「パーセントで判定」という副題がついているからである。中を覗いてみると著者が「陰謀論」の範疇に含めている各種の言説についてそれぞれ「真実度」なるものをパーセントで表示している。これが冗談やユーモアでなく科学であるというのなら、まったくこの本こそが「ニセ科学」(私自身この言葉を認めないが)であり、無責任なでっち上げであることを告白しているようなものである。

いやしくも科学の名において何かをパーセントで表すというのであれば、どのようなデータ用いてどのように計算したかという、計算式を示さなければ何の意味もない。そしてそれを「真実度」と呼ぶとすれば、それは著者がその計算式に恣意的に与えた定義あるいは単なる命名に過ぎない。もちろんその計算式があったとしての話である。抽象的な「真実度」に正確な意味などありえない。意味があるとすれば幻想のようなものだろう。科学技術の専門分野には真実度といった概念があるようだが、それらはその分野において正確な計算式が定義されている筈である。

ちょっと立ち読みをさせて貰うと、最初の方に「地球温暖化はでっち上げだという説」という項目があったのでざっとめくってみた。それによると、地球温暖化はでっち上げだという説の「真実度」は0パーセントだそうである。内容を読んでみても、権威に訴えるだけの科学的に見える用語を使って断定的な表現をしているだけであって、何の議論も論証もない薄っぺらな文章である。そもそもこういう問題を科学的に論じようというのであれば「でっち上げ」などという言葉を持ち出したりすると、ただでさえ複雑きわまりない問題をさらに複雑曖昧にするばかりである。「でっち上げ」などという言葉は使うべきではないだろう。「地球温暖化否定説」とか「地球温暖化懐疑説」とでも言うべきだろう。こういう問題にパーセントを出そうなど大それた事を試みるというのであればなおさらである。

他はぱらぱらとめくってみただけだが、真実度が0パーセントという項目が多く、0.01パーセントというのもある。取り上げられている項目も一貫性があるとは思えないが、どうやら盛んに「疑似科学」批判を行っている人たちが批判の対象にしている言説を集めたと言って良さそうである。「疑似科学」批判の対象と言えば初期にはオカルトや超常現象などだったように思うが、それがいつの間にかそこに政治的な言説が取り上げられるようになり、「陰謀論」という範疇ができあがって来たのではないか。これは筆者の推測。

それにしても何という意味の混乱、科学の乱用だろうか、と思う。科学技術自体の暴走も問題にされる昨今である。科学者、科学的であるこを自認する人達がこんな本を書いているとすれば、科学の信用を落とすばかりだろう。

「意味の周辺」記事

『眼の誕生 ― カンブリア紀大進化の謎を解く』 を読んで

この記事は筆者の別ブログ「発見の発見」の方に掲載しました。
「眼の誕生 ― カンブリア紀大進化の謎を解く」を読んで
全記事表示リンク
プロフィール
最新トラックバック
検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ