4つのテーマ別ブログ記事の更新情報に加え、テーマ外の脈絡のない内容をつぶやきのように綴っています。以前のタイトル「意味の周辺」は2011年12月以降、http://imimemo.blogspot.com/ にて更新を続けています。「意味の周辺」該当記事に対するコメントはhttp://imimemo.blogspot.com/ の該当記事に投稿して頂ければ幸いです。

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梅棹忠夫著「文明の生態史観」再読で「エコ」運動について考える

(この記事は最初、読後のちょっとしたメモとして、簡単に1日で仕上げるつもりでしたが、書き始めると一向にまとまらず、結果的にかなりの長期間にわたって筆者の時間を奪うものになってしまいました。またかなり長いものになってしまい、文脈的にも整合されたものになっていませんが、とりあえずこの辺りでひとまず打ち切ってアップしておきたいと思います。)


先月、表記の本が真新しい表紙で書店の文庫本コーナーで平積みにされているのを見て、他の購入予定であった本と併せて衝動的に購入してしまった。もちろんこの有名な著作のことは知っていたが、内容についてはっきりとした記憶がなかったので、この際読んでおこうという気になったのかもしれない。購入後数日たってから思い出したように読み始めたら非常に早く読める。一気に2日程で読んでしまったのだが、それもそのはずで、確かに昔、同じ内容を読んでいたのだった。しかし全く同じ本ではなかったように思う。章句を思い出したわけでもなかった。少なくともかつて読んだ本よりは、今回は分量が増えているようだ。前の本を捨てたはずは無いので、探せば見つかるだろうが、必要もないので探さなかった。ただちょっとネットで過去の版を調べるには調べてみた。

というわけで、大体の内容は過去に読んでいたのでそれを思い出したといっても良いのだが、しかし今回は再読したから思い出したのであって、「文明の生態史観」のコンセプトはこういうことだという概念が身についていたわけでもなかった。今回再読しなければ、「文明の生態史観」というタイトルを読むだけではその概念を思い起こすことはできなかった。


【文明の生態史観とエコロジー】

その程度の記憶ではあるが、それでも覚えていることと覚えていないことがある。あるいは今回の本に含まれていて以前の本には含まれていない内容があったことも確かである。どちらでも良いけれども、今回始めて気づいたことの一つは、著者の元来の専門分野が本来の、つまり生物学の一分野である生態学であったということだった。著者はよく、自分は理科系の出身であるということを発言されていたように思うけれども、実際どの分野であったのかは記憶がなかった。今回始めて、著者が生物学者として出発し、生態学が専門であったことに気づいた次第である。

今回、私がこのことに注目したのはやはり昨今、なにかと生態学、というよりエコロジーが問題になることが多く、私自身も関心を持ち、つい最近になって、特に最近の日本ではエコロジストとして言及されることの多い南方熊楠に関する本、それも特にエコロジーとの関連で、エコロジストとして南方熊楠をテーマとした本を2冊程読んだばかりでもあったからでもある。

梅棹忠夫自身はしかしエコロジーというカタカナ語はつかってはおらず、この本以外のところでも「エコロジー」について発現されているのを見たり聞いたりした記憶があまりない。どうも今流行のエコロジー運動とは無縁であった学者文化人であったように思う。という次第で、著者がエコロジー運動についてどういう考えていたのかに興味を持ち、詮索したくなったのである。

今回読んだ文庫本(中公文庫)には「生態史観から見た日本」という講義録が収録されているが、それには次に引用する章句が含まれている。


【文明の生態史観は「べき」、「ゾレン」、「当為」の議論ではない】

『しかし、読んでくださればわかるように、「生態史観」は「べき」の議論ではございません。それは、世界の構造とその形成過程の認識の理論であって、現状の価値評価ないしは現状変革の指針ではございません。それは、ザインの話であって、ゾレンの話ではないのであります。そこからは、どんなにきばってもみても、「べき」の話はでてこないのであります。』
『私はむしろ、そのような「べき」の立場にたたなかったからこそ、生態史観のようなものができたのであるとかんがえているのです。わたしにも、一般的な実践について、あるいは「べき」について関心や意見がまったくないわけではありません。しかし、この問題に関しては、わたしはやはり、区別ははっきりしておいたほうがいいとおもうのです。』
『ところが、「生態史観」を発表して以来、よせられた反響のひじょうにたくさんの部分が、この「べき」を問題にしているのであります。』
『生態史観というようなものは、私は、なによりも単なる知的好奇心の産物であるとかんがえています。』

以上に引用した個所は非常に重要な問題を含んでいるように思われる。端的に言って著者の考え方は正しいと思う。「べき」の問題、つまり倫理や政治的な問題は学問的、とくに科学的な問題とは区別しなければならない。

但し著者自身は、「区別ははっきりしておいたほうがいいとおもう」とは言うもののそれに対してそれ以上に熱を入れて非難することもなく、そういう傾向を打破すべく活動を始めることもなく、その事自体に興味を持って次のように考察を始める。


【政治と知識人】

「わたしはむしろ、日本の知識人たちが、理論的関心よりも、実践的関心のほうを、よりつよくもっているという現象そのものに興味をそそられるのであります。」

という文脈につらなり、知識人のこういう態度を日本とヨーロッパに共通する特徴であるとして「文明の生態史観」のなかに、知識人の「生態」とは言わないまでも学問的姿勢を組み込むような考察を始める。そして「生態史観の応用的展開の一部としての比較知識人論、ないしは比較教育論へのいとぐちにすることができるかもしれないと、こうおもうのであります」という抱負を語ることでこの講義を終えている。

ただここで、著者は考察をさらに進めるにあたって「べき」の問題、「当為の主張」の問題を「政治指向」の問題に置き換えている。「当為の主張」という広い範囲の問題を政治の問題に限定あるいは狭めているとも言えるが、問題をそらせている訳ではないし、政治が重要な問題であることには変わりがない。
なお、著者は当為を表す言葉として最初にカッコつきの「べき」という言葉を使い、次にドイツ語のゾレンをつかい、あとから「当為」という言葉を使っているが、この記事では以降「当為」を使うことにしたい。


【「文明の生態史観」と「エコロジー思想、運動」との平行関係】

この「比較知識人論」の契機になった問題というのは、著者が提起した「文明の生態史観」に対する知識人側からの反響であった。著者自身が純粋に知的好奇心の産物と考えていた生態史観に、現状の価値評価ないしは現状変革の指針を見ようとした知識人層を見てのことであって、今問題になっているエコロジーの問題、エコロジー思想やエコロジー運動については何も語っていない。

けれども、著者の生態史観も、世界的なエコロジー思想や運動も共に、基本的に、言葉どおり生物学の生態学に由来しているわけであるから「文明の生態史観」とエコロジー思想との間に何らかの並行的な見方ができる筈である。

すなわち、梅棹忠夫はその本来の専攻分野である生物学の一部門である生態学から出発し、それを人間の歴史に応用して「文明の生態史観」を提起したが、一方でちょう時期的にもそれと平行して同じ生物学の生態学をやはり人間に関する問題に応用したと言えるエコロジー思想あるいはエコロジー運動が展開してきたと見ることができるわけで、見方によっては同じ生態学に由来し、それを人間に適用する際の二通りの道が示されたとも言える(二通りしかあり得ないという意味ではなく)。

そして、著者がその一方の道として提起した「文明の生態史観」に対する反響が「知識人の政治指向」に由来するものであると著者が考えたわけだが、その同じ「知識人の政治指向」が、文明の生態史観と平行して展開していたエコロジー運動に大きく関わっていたと見ることができるわけである。


【文化系知識人が目立つエコロジー運動】

そう考えるには当然、根拠がある。著者がここで知識人と言っているのは主として人文科学系の知識人のことを指しているといって間違いはないだろう。エコロジー運動の方も、推進しているのは、少なくとも日本の学者知識人でエコロジー思想を喧伝しているのは、目立つのは社会学者や文化人類学者など文化系の学者や文化人の方である。


【当為の主張が入ることでエコロジーが文化系知識人のものになった】

専門的な生態学や地球科学系の出身者よりもむしろ社会学者や文化人類学者やその他の文化系学者、あるいはジャーナリストなどの活動が目立っている。またエコロジー運動の活動家は学者というよりも文字どおりに「活動家」でしかないようなケースも多いだろうし、知性派的な芸術家や芸能人の創作活動に取り込まれたりという場合も多い。職業的な芸術家や芸能人の創作活動とは即ビジネスである。当然いずれも生物学や地球化学を基礎とした生態学や環境科学の本格的知識を持っているとは思えない。もちろん中にはそれなりの勉強をしている人もいると信じるが、あくまで当為が先に立ち、偏見のない自由な、それこそ純粋な知的好奇心から勉強をしているとは考えられない。そのような立場の人の場合は当然、当為、「べき」の方が出発点になっているからである。

つまり、人文科学系出身の学者や芸術家や芸能人などが本来の生態学や地球科学を専門的に勉強することがあっても、エコロジー運動からその分野に入って行く場合はもはや先入観を持たずに純粋な知的興味から知識を取り入れることができにくくなくなっているのである。もちろんこれは傾向としてである。


【本来のエコロジー以外の自然科学者が主導するエコロジー運動】

また自然科学系の知識人であってもエコロジー運動に積極的に関わっている人物はむしろ本来の生態学や地球化学からは隔たった分野の専門家が多いように思われる。例えば今エコロジー運動の最たるものは地球温暖化対策という問題といってよいと思われるが、私見では地球温暖化問題に最も関係の深い自然科学の特定分野があるとすればそれは地球化学をおいて他にはないと思っている。もちろん気象学も、気象学がその一分として含まれると言われる地球物理も関係が深いが、地球化学はそれらをも包含するものだと思う。もちろん、生態学もそれなりの関わり型で関係していることも確かである。

ところが、自然科学系の専門家で、特にエコロジー的な発想で地球温暖化対策に熱心で発言機会が目立つのは計算科学者、物理学者、原子力工学の出身者などで、本来の生態学者も地球化学者も、あるいは地球物理、地質学など地球科学一般の専門家も一向に目立つところに姿を現さないように見えるのである。もちろん政府所属の研究機関などに所属する専門家は別である。


【エコロジー思想に取り込まれた地球科学、特に温暖化問題】

それはこういうことだと思う。地球温暖化問題がエコロジー問題となることで、この問題を扱うのに最も相応しい分野は何かという問題からフォーカスが外されることになるのである。覆い隠されるとも言える。そこでこの問題に高い関心を持ち、エコロジー運動に熱心な他の分野の科学者が主導的な意見を主張することが不自然ではなくなる。この問題が、当為の議論を含むエコロジーの問題となり、エコロジストの扱うべき問題ということになり、「現状の価値評価」、「現状変革の指針」を含むエコロジーの権威が強調され、ありのままの現状認識の問題が副次的な問題とされてしまい、フォーカスを外されてしまうのである。こういう現象自体が梅棹忠夫のいう「知識人論」の対象となるような知識人の生態とも言えるような事態が生じている。

要するに自然科学系専門家の場合も人文系の学者や芸術家、芸能人の場合と同様である。

一般に自然科学者の間では、分野の違いによる専門の独立性を尊重する気風が文化系の学者よりも強いのではないかという印象がある。お互いの専門性を尊重し、他の専門分野に立ち入ることを差し控えるような傾向が強いのではないだろうか。その結果、自分の専門ではない分野については、自分の頭で考えることを放棄してしまうのは文化系の学者や芸術家の場合と変わらない場合も多いように思われる。むしろ学問的な専門分野を持たない一般人のほうが公平に、真実に近づきやすい面もないとは言えないと思う。

他方、政治の立場からすれば環境問題は重要な問題であり、政治が、環境問題への回答を自然科学の様々な分野に求めるのは当然のことである。当然、好むと好まざるとに関わらず、科学者も政治に向けて何らかの対応を迫られる。その相手は狭い意味の政治家に限らず、それ以上に行政組織、さらに利益団体とか、イデオロギー団体とか、活動家など、あらゆる政治的な立場から自然科学者の方に向けられる働きかけに対応せざるを得ない。

このように地球科学がエコロジーに取り込まれた、というか飲み込まれたような形になっているが、それは正当なことなのかが問題になってくるのである。


【物質科学、生命科学、人文科学、歴史と科学】

ここまで、梅棹忠夫の「文明の生態史観」と「エコロジー思想」とをただ、当為の立場に立っているかいないか、あるいは当為の立場であるか、単なる知的好奇心の立場からであるかという点における違いのみを問題にして比較してきた。著者は自らの生態史観を「世界の構造とその形成過程の認識の理論」であり、「現状の価値評価ないしは現状変革の指針」ではないと言っている。一方、エコロジー思想は「現状の価値評価ないしは現状変革の指針」に該当しているので、これまで見てきたようにこの2つの思想を単純に当為の立場であるか当為の立場を含まないかという点だけで比較してきたわけだが、それでもこれら2つの思想にはその点以外にも大きな違いがあり、またそれらのコンセプトには違いがありすぎるとも言える。

というのも、何よりも人間の当為の議論を含んだ、あるいは当為の指針を求めるとも言える「エコロジー思想」は、本気で考えればあまりにも、途方もなく壮大なものになる筈だからである。

「文明の生態史観」の方は、もちろんこれも壮大ではあるが、ただ生態学の方法を人類の歴史の理解に応用するということであって、地球全体としての理解などは含まれていない。ここでは地球環境は人類史の外部にあるシステムであって、地球環境への人間からの働きかけについては、基本的に考察の対象外であるように見える。

他方のエコロジー思想の方は恐らく、人間を含めた地球全体を人間の立場を離れて考察しようとする立場であろう。その中では自然に対する人間からの働きかけが含まれる。この辺りの事情から「地球に優しく」とか、「地球を愛する」とか、「地球が好きだ」とか、「すべてを地球のために」といったキャッチフレーズが飛び出すようになったのだろう。

しかし、生態学という生物学の段階ですでに生命現象を取り扱っているわけだが、人間活動をも含めるとなると、一体どうなることか。生物学の段階ですでに物理化学現象を主題として扱っているわけではなくなっている。それに人間の文明をも含めるとなると一体どういうことになるのだろう。


【歴史でつながる生物学と地球科学】

元来生物学には地球という概念は存在しない。少なくとも表面には登場せず、学問のテーマそのものではない。環境という概念なら当然、生態学にはあるのだろうが、しかしそれも主題ではなく、あくまで背景あるいはシステムの外にあることは「文明の生態史観」の場合と同じである。物理的な物体や化学的な物質を扱っているわけではない。地球を物理的な物体または化学的な物質として扱うのは地球物理や地球化学である。「文明の生態史観」が物理的、化学的な物質としての地球を研究対象とせず、またできないのと同様に、生物学の生態学も生態学の枠内で地球を物理科学的に研究することはできないのである。
ただ、地球科学には歴史の概念がある。地質学の目的は地球の歴史を明らかにするものであるという考え方がある。その地球には当然、生物と人間も含まれ、生物と人間が物質としての地球に何らかの足跡を残し、地球の歴史と重なる部分があることから伝統的に地球科学と生物学はつながってきたといえる。ダーウィンは地質学者として出発したが、生物の進化を研究することによって結果的に生物学者に転向したという事になった。

このように生物学と地球科学が繋がっているとはいえ、それはあくまでも別物が繋がっているだけであって、決して1つの纏まった統一体に統合されたものであるとは言えない。

もしも統一体であると言えるとすれば、空間的にも時間的にも、生物も人類も地球のごく一部として包含されることになる。しかし、地球を物理的な物体、化学的な物質として扱う地球科学が、生命や精神現象を扱う生物学や人文科学を包含することはできないことは言うまでもない。という次第で、地球科学と生物学はこれまで一体のものであったことはなく、なりそうにも思えない。


【エコロジーの現在と可能性または幻想】

ところが、エコロジー思想によって地球と生物、人類が一体のものとして把握できるような印象、気分が醸成されてきたように思われる。確かにこれは興味深い問題ではある。しかし精神的な要素を含めて地球全体を科学的に理解するような方法は現在存在しない。

精神的なものが物理現象に影響を与えることやその逆の現象について、例えば超心理学や物理学あるいは哲学的に研究されたり考究されたりしていることに関しては、色々と情報があり、興味深いことは確かである。しかし現在のエコロジー思想や運動に、すでにそういった方面の成果が取り入れられているわけではない。今のところ地球と生命を持つ生物、精神性を持つ人間を一体のものとして統一的に理解できるというのは幻想といったほうが良いのではないか。宗教的直感というものもあるかも知れないが、まあ今のところは幻想であり、少なくとも科学ではない。

要するに現在のエコロジー思想は、本来一体のものではない地球科学と生態学とが一体であるかのように装い、エコロジーを地球全体に拡張しているのだといえる。


【地球の人格化】

一方で、生態学に人間をも含めることになれば、梅棹忠夫の「文明の生態史観をも、またそれこそ「比較知識人論」まで、さらにありとあらゆる社会学的なものをも包含させなければならない。それは途方も無いことである。ところが現在のエコロジー運動は人間の歴史とか社会学とかではなく、当為の主張、あるいは政治的、倫理的なものの方に偏って取り込んできたといえる。その結果、地球の擬人化が始まった、というか、むしろ人格化が始まったとも言える。これは本来科学思想というか科学的言語全般に含まれている擬人的な要素とは別次元の擬人化あるいは人格化である。

大地の神格化なら古くからある。しかし今のエコロジー運動は神格化ではなく人格化に近い。

しかし現実に、表層で行われている議論は、実際に地球が神であるとか人間のような心を持っているかといった議論とは別の次元で行われている。というのは、現在のエコロジー運動が実際に地球が神であるとかまたは地球が心を持っているというようなことを認めた上で科学的議論をしているわけではないからである。少なくともIPCCのようなCO2温暖化説のオーソリティーがそのような議論をするわけもなく、一般の科学者でもCO2温暖化説を支持している層はとくに、神秘主義を批判することにも熱心である場合が多い。さらに工学的な発想が加わり、CO2を地中に圧入して自然をコントロールしようという、自然を改変することに批判的であるはずのエコロジー思想とは大いに矛盾しそうな発想を実行に移そうとする。

要するに、矛盾に満ちているのである。まともで論理的な議論が行われていないように見える。


【地球の人格化ないし神格化が当為と結びつく】

(この部分は再考の予定)

・・・・そういった諸々の結果、エコロジー思想を構成する当為の要素が、地球化学の問題であり、地球化学の問題として解釈できるはずであり、実際に解決済みである地球温暖化の原因論にまで影響力を行使しようとしているとも言えるのである。

もちろん一方で生態学的知見、他方で人間社会の福利、また信仰や精神性からの要請で自然保護や動物の愛護が主張されるのは自然なことであってそれはそれで尊重し、議論が必要であれば議論が必要なことは言うまでもない。しかし、梅棹忠夫が生態史観について述べたように、当為の問題と現象とははっきりと区別しなければならない。そうでなければ結果的に政治とビジネスに翻弄されることになる。現にそうなっているように見える。


地球化学は人間活動をも含めたすべての生命現象をもすべて化学現象に還元(還元という言葉に語弊があるとすれば、むしろ解消または消去)して地球全体を把握することと理解しており、今のところ地球全体を科学的に理解するには地球化学が最も適切な分野であると思われる。


【南方熊楠】

最初の方で触れたとおり、少し以前、南方熊楠の解説本を2冊ほど読んだ。鶴見和子著[南方熊楠」および中沢新一「森のバロック」。非常に難解だが、南方熊楠がこういった問題、つまり自然科学と人文科学の統一といった問題に迫っていることはなんとなくわかる。

しかし南方熊楠のエコロジー思想にそのような展開の可能性があるからと言って、熊楠思想の研究から現在の段階で政治的な当為が出てくるであろうか。

すでに見てきた通り、今の政治的なエコロジー運動は当為、倫理的な先入観による予断と偏見から客観的な地球科学ないし地球化学現象を歪めて解釈する可能性を孕み、政治とビジネスに翻弄される可能性が多々あるところの未熟で歪んだものである可能性が高く、現にCO2温暖化説という誤った学説を強硬にサポートし続けるという欺瞞に陥っている。それ以外にもそのような欺瞞が多々あるようなことが言われている。

ましてエコロジー思想家、活動家の多くは専門の生態学すなわち本来のエコロジーの専門家でもない場合が多いようなのだ

このような状況で、難解な南方熊楠の思想の研究が即、政治的に有効な運動に転化できるとはとても思えない。そこから地球温暖化の原因論に到達できるわけでもないし、エネルギー問題の技術的、経済的、政治的な解決策が得られるとも思えない。地球温暖化問題の場合はすでに地球化学的にメカニズムが明らかになっているのである

今必要なことはむしろ、現在の未熟なエコロジー思想による予断と偏見から地球科学ないし地球科学的知見、さらに本来の生態学を救出し、取り戻すことではないだろうか。

熊楠がエコロジーと民俗学の立場から神社合祀令の反対運動を行ったのは熊楠が精通していた森林のエコロジーと地域の民俗に直接関わる問題であって、同時に時の政府がそれを知らなかったからであると思う。それ以上でも以下でもないと思われる。熊楠の基本的な態度は恐らく純粋な知的好奇心を動機とした学問という、梅棹忠夫の立場に近いものではなかっただろうか。

難解な神秘思想で言葉で表現できないものであるからとも言われているが、南方熊楠がそういう体系を理論化しなかったのは、それが時期尚早であるか、あるいは学問としては不可能であると思ったのではないか。

少なくとも今の時点では、現象の理論と当為とを統一したように見えるエコロジー思想を現実の政治に持ち込むことは政治とビジネスのプロにに翻弄されるだけである。
もちろん学問とビジネスとの結びつきは避けることはできないし、必要である。しかしそれは目に見える形でなければならない。今のエコロジー運動ではそれが内在化されてしまうのである。


【理論を道徳的に判断するイデオロギーの可笑しさ】

今の地球温暖化問題はまさに「当為の主張」を含んだエコロジー思想が地球科学を飲み込むという無理な、少なくとも今の時点では途方もなく無理なことによって発生した歪のような印象である。その結果、一時はCO2温暖化説を否定することが悪徳であるかのような気風さえ醸し出されていた。

同じような現象が放射線問題でも出てきている。医学は元々、当為に関わる倫理的な要素に支配される。低線量の放射線リスクにしきい値があるという主張をすると、それだけで倫理にもとると受け取られかねない雰囲気が醸しだされている。

古くはマルサスの人口論が非人間的で非道徳的だという理由で非難されていたことがある。科学(技術ではない)と道徳を一緒くたにして議論をしてしまうイデオロギーの可笑しさ。そこに技術も加わる。

以上のような現状を見ると、梅棹忠夫が専門学者、あるいは科学者として、純粋に知的興味を動機として研究活動を行うことに強い意志とこだわりを持っていたことに、非常に重要な意味があるのではないかと思う。


【学問は最高の道楽―梅棹忠夫】

昨年出版された「梅棹忠夫語る」の第六章は「学問は最高の道楽である」という表題が付けられ、実際にその通りの意見が語られている。ポイントは、「学問は道楽である」ではなく「学問は最高の道楽である」ということである、つまり「最高の」が付けられていることは重要であると思う。いまそこまで意味を深く詮索する必要もないが、道楽としての学問がその純粋性を保証している面がある。

そのような純粋に知的興味から行う学問は、直接には社会に何ももたらさないように見える。またそう思われやすい。しかし芸術や芸能と同様、そういうものは人々の心を豊かにする上で不可欠のものである。梅棹忠夫が博物館づくりに奔走したのもそういう意味でのことであったように思われる。


筆者にとって梅棹忠夫の最大の功績と映るものは、「学問とは最高の道楽である」という生き方を、身をもって示したことにあるのではないかと思う。


【エコロジー思想へのあこがれ】

以上のように、当為の主張、指針を包含したエコロージー思想、運動の中に様々な矛盾と混乱を抱え込んでいることが見て取れるように思う。

しかしこのような現在のエコロジー思想ないし運動が多くの人々の心をとらえていることは重要な事実である。実際、科学と当為が統合されているように見えるエコロジー思想は1つの理想であり、究極の知識と言えるのかも知れない。理想的、究極のそれは人生の指針となり、生きがいとなり、絶望からの救済とも映る。

他方、「学問は最高の道楽」という梅棹忠夫の立場も1つの救済ではないだろうか。道楽は遊びとは少し異なったニュアンスがある。南方熊楠の態度も梅棹忠夫の立場と誓いものであったような気がする。

ところで、道楽とは何だろう?

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縦書き及び横書きの機能性の差異と鏡像問題 その3 ― 縦と横、それぞれの方向性と文字と文字列のゲシュタルトとの関係の導入。

ゲシュタルトの概念導入の必要性

前々回、このテーマの第1回目では鏡像問題とされる現象の根底に横たわる原理が縦書きと横書きの機能的な差異にも関係していると考えられる根拠を述べ、回を改めて下記項目をこの原理から説明してみたいと述べました。2回目の前回は、その本題の考察に入る前に、両眼視差の問題を提起して終わったのですが、今回は本題、すなわち鏡像問題の縦書き横書き問題への応用とでも言える問題に入りたいと思います。

■ アルファベットによる英語などのヨーロッパ言語の記述が横書きでなければならないこと。
■ 数式が横書きに適していること。
■ 漢語、ハングル、そして日本語などは縦書きも横書きも可能であるが、横書きの場合は左横書きも右横書きも可能であること。
■ 横書きにおける有利さを比較した場合、漢語や日本語よりもアルファベットによるヨーロッパ言語の方がより有利であること。しかし、工夫によってはこれは改善できる。また漢語やハングルに比べて日本語の方が横書きにも有利である可能性がある。
■ 漢字仮名交じりの日本語は横書きの場合も縦書きの場合も漢語やハングル、あるいは仮名のみによる記述よりも有利であるが、この有利さは横書きにおいてより大きく作用する。
■ 縦書きの段組は横書きの段組に比べて短い場合が多いこと。
■ 横書きは速読性に優れ、縦書きは正確性、確実性に優れる可能性がある。


これらは、今や直感的に理解して貰えるように思われますし、具体的に論証することも容易であろう予想していたのですが、いざ、文章に表現しようと思うとなかなか難しく、思うように言葉と表現が見つかりません。そうこうする中に気付いたことは、ここで1つ、少なくとも1つの概念、短い言葉で言い表せる概念を定義し、その重要性を認識することが必要であるということです。少なくとも、英語やそれを含めた欧文、和文、中文、韓文など、個々の言語の文章に適用して考察するにはそれが必要になってきます。その概念というのは実は、前掲の「横書き登場」でも取り上げられています。それは「横書き登場」の第7章で「横転縦書きと左横書きの関係」という小見出しの付けられた段落に、次のように書かれています。

「ラテン文字のように一字一字が音素という小さな単位に対応する音素文字では、一語を表すのに多くの文字が必要となり、文字を読むときは一字一字を読みとってゆくのではなく、後を表す文字列を1つのまとまった形(ゲシュタルト)としてひと目で読みとることになる。こうした文字では文字列を一字ごとにばらしてしまうと、読み取りの効率が非常に悪くなる。このような文字体系では、文字列全体を回転させるのでなければ書字方向を変えることはむずかしいのである。」 ― 屋名池誠著、「横書き登場」第7章より―

このように、「横転縦書き」の意味に関わる箇所でゲシュタルトの概念が使われているわけですが、著者はこのゲシュタルトの概念をここでしか使っていません。ゲシュタルトの概念を、さらに根本的な、なぜ欧文では横書きが相応しく、和文、中文、韓文では縦書きで発展して来たのかという問題に適用できる筈、と思われるのです。つまり、なぜ欧文では横書きが自然であり、和文では縦書きが自然であったのかという問題、さらに、縦書きと横書きそれぞれの機能性の分析のそもそもから、ゲシュタルトの概念を用いて考察すべきなのです。その際、鏡像問題の根底に横たわるところの、人間にとって上下と左右、あるいは縦と横というそれぞれの方向性自体が持っている性質と併せて考察することが必要になるという事ではないか、と思われるわけです。

さらにはこの、ゲシュタルトと言われる現象とこの縦横の感覚それぞれ自体が同根のものなのではないか、とも思われるのですが、いまはそこまで考察する必要はないと思います。

しかしその前に、個々の言語の表記とは関係なく、一般的に縦方向と横方向における方向性、あるいは秩序感覚とでも言うべき問題を考察してみたいと思います。まず、初回の冒頭で述べたことですが、彩度、改めて鏡像問題の根底に横たわる基本原理と思われる箇所を繰り返すことから始めます。

マッハとカッシーラーによる次の引用文

『視空間と蝕空間は、ユークリッド幾何学の測量的空間とは対照的に、ともに「異方性」と「異質性」をもつという点で一致している。「生物のもつおもな方向性、前と後・上と下・左と右は、視空間と蝕空間という二つの生理的空間において、ともに等価的でないという点で一致している。」 ― カッシーラー、「シンボル形式の哲学(木田元訳、岩波文庫)第二巻、神話的思考」より引用。』

これが鏡像問題とされる現象を説明できる根本的な原理であると考える訳ですが、この、「視空間と蝕空間は、ユークリッド幾何学の測量的空間とは対照的に、ともに『異方性』をもつという点で一致している。」という説明自体は特に鏡像問題のみに関わる原理ではなく、人間、さらには動物一般の知覚そのものに関わる普遍的な問題に関わるものであるはずです。縦とか横とか前後ろと言った概念そのものに関わっているとも言えます。(これを概念と言うべきなのか、感覚と言うべきなのか、あるいは知覚と言うべきなのか、今は分かりませんが、とりあえずこれらの言葉を適当に用います。)ですから、当然、これに関係する現象あるいは、習慣はいくらでも挙げることができそうです。とはいえ、意識的に例を見つけるのは必ずしも容易では無いかも知れません。というのも、縦とか横とか、前、後などの概念は余りにも基本的な概念、というか、感覚、あるいは知覚であり、主観的に身についた感覚であるため、意識するのは難しいのかも知れません。しかし、その気になって探せばいくらでも見つかる筈のものでしょう。

例えば、地球儀がなぜ緯度と経度で表され、地図で経度が縦、緯度が横に表現されるのか?という問題

例えば、地球儀や地図で経度が縦の方向、そして南北方向に充てられ、緯度が横方向東西方向に充てられていると言う事実。これは地球の公転と自転、太陽や星との位置関係といった外的な、あるいは物理的な条件と共に、鏡像問題と共通する心理的ないし、認知科学的な要素が関わっているものと考えられます。これは、鏡像問題において光の反射や眼の位置といった物理的な要素と心理的ないし認知的な要素とが関わっているのとパラレルな関係であるとも言えます。

そこで、この普遍的な原理が縦書き横書きの機能性の問題にどのように適用できるのかという事を考えた場合、以下を基本原理とみなして考察を進めたいと思います。詳細な推論は省略しますが、何れも物理的ないし幾何学的、あるいは生理的な要素と心理的ないし知覚の要素の両者が関わっているものと考えられます。

上から下への方向感覚、秩序感覚は人間に自然に備わったものであるのに対し、左右間の方向感覚、秩序感覚は規則や習慣で強制されたものであること

書字方向に限らず、一般的に上から下への方向感覚、流れ、あるいは秩序感覚は自然に備わっているのに対し、左右の方向感覚における流れ、秩序感は何らかの規則によって強制されなければならないものです。基本的に、左右には上下のような自然な秩序感覚がありません。左右は本来殆ど平等であり、何らかの強制的な秩序が押しつけられて始めて方向性が定まるのだと思います。これを書字方向における注意の向け方に適用すれば、以下の各項目を仮説として挙げることができるでしょう。


1)書字方向において上から下への方向性あるいは秩序感覚は人間には自然に備わっているものであり、これに従って視覚的な注意力と視線、さらに眼球の動きも比較的よどみなく上から下へと流れることができる。少なくとも意識しない限りは自然に逆向きになる事はない。また目移りすることも少ない。

2-1)横方向における左右には基本的に縦方向における上下のような価値的な差がないため、書字方向において、左右の方向は上下のように自然に決まることはなく、強制的な規則あるいは習慣性が必要になってくる。そのために注意力の動きも、それに伴う視線の動き、したがって眼球の動きも付加的ないし偶然的な要素に左右されやすい。例えば、文字の場合は文字の大きさ、太さ、眼を引く特徴、等々に左右されやすく、移ろいやすい。目移りし易いとも言える。しかし、反面、左右両方向を一覧し易い傾向はある。これは横方向という方向性自体とともに両眼が横に並んでいることと、それに起因する両眼視差の性質にも関わっている可能性がある。

2-2)横方向の場合、注意力と視線が左右何れかの方向に一貫して流れる場合も、滑らかというよりも飛び飛びに、あるいは条件によってはリズミカルに移動する傾向がある。

2-3)横方向の文字列の方が縦方向の文字列よりも一時に全体として知覚し易い、あるいは自然に全体を1つのまとまりとして知覚する傾向がある。

(気がついてみると、これらの中にすでにゲシュタルトの現象が入っていることが分かりますが・・・)

これらを欧文や和文など具体的な言語表記に適用しようとする場合、冒頭に述べた文字と文字列におけるゲシュタルトの問題を縦横それぞれの性質の問題に組み入れる必要があるわけです。
まず、方向性の流れとしては上から下への縦方向が自然であるとするなら、なぜ欧文は横書きが自然なものとして発達してきたのであろうか?という問題が生じます。この場合、もしも、各行、1行全体にゲシュタルトが適用できるもの仮定すれば、行移りが上から下に進行するので、まったく横書きが自然なものになるといえます。しかし欧文の1行が漢字1字と同じようにゲシュタルトとして認識できると考えるのは無理です。しかしこれは程度の問題もあるでしょう。少なくとも多少はゲシュタルトが作用していることは明らかです。以下、この問題を冒頭に掲げた、連載の1回目から引き継いだ7つの項目に適用して考察してみたいと思います。これは次回にしたいと思いますが、これらの項目の中で2番目の数式の問題は基本的に縦と横それぞれの性質からだけでも大部分が説明できるように思われますので、この項だけを今回、先に考察しておきます。


数式が横書きに適していること。

これは基本的に、横方向の左右には上下や前後に比べて異方性が小さい、価値的な差がない、あるいは価値付けが任意的であるという事から、誰でもすぐに納得できる事だと思います。そもそも数式には方向性というものがあまりありません。少なくとも等式や不等式の左右の項に方向性はありません。等式では、左右の項を入れ替えるのは自由だし、不等式であっても記号を変えれば左右を入れ替えることができます。ただ十進法で表現された数自体には位取りという方向性はあります。当然、十進法の位取りによる数はアラビア数字でも漢数字でも縦書きは可能で、ことによれば縦書きの方が書き間違いや読み違いは少ないかも知れないと思います。しかし、数式となるとやはり、方向性の無さというか、入れ替えの可能性、一覧性などから、どうしても横書きが有利なのは自然に理解できると思います。数式というのは全体の形で理解するという面もあり、また逆方向に右から左に読むこともできない訳ではないと思います。特に等号や不等号の右側を先に読んだりすることは、十分にあり得ることです。全体の形の一覧性という点でも横長が有利であると言えます。

今回、以上。

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縦書き及び横書きの機能性の差異と鏡像問題 その2 ― 両眼視差の問題

はじめに、鏡像問題に関する新しい記事を「ブログ発見の発見」の方に書きました。関連しますので、最初にリンクしておきます:鏡像問題と「虚像問題」http://d.hatena.ne.jp/quarta/20101030#1288457496 こちらの記事は、大阪府立大学名誉教授の多幡先生から贈呈いただきました論文集にちなんでこの問題を再考したものです。

さて、縦書きと横書きの機能性と鏡像問題との関連についての、前回よりの続きです。

前回、生物、この場合は人間の感覚、特に視覚にとって前後、縦方向と横方向の質的な違いで、縦書きと横書きに関して以下のような事柄が説明できる可能性について言及しました。
1)  アルファベットによる英語などのヨーロッパ言語の記述が横書きでなければならないこと。
2)  数式が横書きに適していること。
3)  漢語、ハングル、そして日本語などは縦書きも横書きも可能であるが、横書きの場合は左横書きも右横書きも可能であること。
4)  横書きにおける有利さを比較した場合、漢語や日本語よりもアルファベットによるヨーロッパ言語の方がより有利であること。しかし、工夫によってはこれは改善できる。また漢語やハングルに比べて日本語の方が横書きにも有利である可能性がある。
5)  漢字仮名交じりの日本語は横書きの場合も縦書きの場合も漢語やハングル、あるいは仮名のみによる記述よりも有利であるが、この有利さは横書きにおいてより大きく作用する。
6)  縦書きの段組は横書きの段組に比べて短い場合が多いこと。
7)  横書きは速読性に優れ、縦書きは正確性、確実性に優れる可能性がある。

これらの事柄は大体すべてが現在実際に実行されている事ばかりです。そして何となく直感的に納得できるような事が多いようにも思われますが、しかし、問題なく納得できるのは上の3つまででしょう。その三つ目、中国語、ハングル、日本語は現在縦書きと横書きが併存しているというのはもちろん、現状で実行されていることですが、歴史的には日本語や中国語の横書きは外国語の影響が入るまではなかった事、そして今後はすべて横書きに統一されるであろうと予測する人や動きもあることから、このあたりの問題には自明でもなく、可成り微妙な議論の余地があることが分かります。その意味でこのあたりの事情を理論的に明らかにしておくことは重要であると考えます。

上の二つの項目について、英語など、 なぜ横書きが自然なのか、数式もなぜ横書きが自然なのかということは自明であるだけに何故そうなのか、と理論的に説明されることはあまり無かったように思われます。数式が横書きに適していることなど、誰でも直感的に分かることですが、何故そうなのか?という事の説明は、少なくとも私は聞いたことがありません。前回参考にした「横書き登場」にも何故そうなのか?という理論的な説明は見出されなかったように思います。

一方、鏡像問題の方は、「なぜ鏡像の左右が逆転するのか?」という設問で古くから議論が行われてきたそうです。この問題をブログ「発見の発見」http://d.hatena.ne.jp/quarta/ で取り上げたきっかけになった毎日新聞の記事の冒頭は次の様に始まっています。「鏡の前で右手を上げると、鏡の中の私は左手を上げているように見える。なぜ鏡の中では左右が反対なのか。この問いかけは、古くはギリシャの哲学者、プラトンが考えたと言われるほど長い歴史を持つ。現在も認知心理学と物理学の両分野で、国際的な議論が続いている。」
何故、「何故鏡像の左右が逆転するのか?」という疑問が古くから議論の対象とされてきたのに対して「何故アルファベットで記述する言語は横書きなのか?」とか「何故数式は横書きなのか?」といった疑問は古くから議論される事はなかったのでしょうか。たぶんこれはヨーロッパのアルファベットで記述する言語にとって、自然にそうなったまでであり、理由など考えるまでも無かったのではないでしょうか。しかし本来縦書きであった日本語にとって横書きも可能であることがわかった現在、この種の理論的な説明が求められるようになってもおかしくないように思います。

もう一つの理由として、鏡像問題の場合は光の反射という、物理的な現象を含んでいるということもあると思われます。光線の反射の問題が関わっていることが明らかであり、それを検討した上でなお解明されない部分が残るということに気付くことから物理的現象と心理的現象との関わり合いについて議論が展開されてきたようです。

前回はその、鏡像問題から物理的な部分を差し引いた心理的な、あるいは認知的な要素が縦書きと横書きの機能性にも関わっている事を述べ、具体的に今回冒頭に掲げた各項目について説明する予定を述べた次第ですが、その前に、この縦書きと横書き問題にも、構造問題とは別な、何らかの物理的ないし生理的要素が関わっていることが明らかですので、今回はそのことについて検討して見たいと思います。

その物理的ないし生理的要素というのは、既述の屋名池誠著「横書き登場」にも取り上げられていましたが、眼球運動の問題、それから両眼が横向きに並んでいることの影響はどうかという事になるでしょう。この問題に付いては「横書き登場」における記述次の様に至って簡潔にまとめられています。
「<眼球運動> 上下左右で差はない」
「<両眼の視力分布> 横書きでも片眼の視野で十分なので横書き有利と言う事はない・・」
「<文字を見分ける視野> やや横書き(有利?)」

このなかで眼球運動については「上下左右で差はない」とだけ書かれているのですが、この比較のしかたはあまりにも単純ではないでしょうか?というのは、上下の動きと左右の動きは単純に早さを比較できるようなものではないと思われるからです。それは、両眼には視差というものがあります。この比較で気になるのは、左右の一つ一つの眼について縦横の動きを比較したのでしょうか、それとも両眼で比較したのでしょうか。それが気になります。両眼で比較する場合、その場合左右の視差、眼球運動に関しては輻輳角度というものがあります。上下運動の場合は左右の輻輳角度は同一に保たれたまま上下に眼球運動が行われますが、左右の運動の場合は、動きは左右で対称ではありません。下に簡単な図を書いてみました。




片眼の場合は簡単ですが、両眼をAからBまで動かす場合と、CからDまで動かす場合では単純に速さを比較するだけで良いものでしょうか?正確さというものが問題になってくることはないでしょうか。また眼や脳にストレスがかかるという事はないでしょうか?横の動きの場合、英語と日本語ではどちらに向いているでしょうか?

仮に両眼の視点を常に一致させながら眼球を動かさなければならないとすると、横に動かす場合は縦に動かす場合に比べて相当にストレスがかかるのではないかと思われます。必ずしも正確に一致させながら動かす必要は無いかも知れませんが、そういう場合には英語と日本語ではどちらに有利に作用するでしょうか。

前記7項目の各論に移る前に、以上のような視差の問題を提起しておきたいと思います。

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縦書きおよび横書きの機能性の差異と鏡像問題

以前から、文の縦書きと横書きについて考えていたことをまとめてみたいと思っていたのですが、この問題に付いて特に専門的な研究や発言をフォローしてきたわけではないので、一般的な現状認識がどのようなものであるのかを知りたいと思い、手頃な参考書として次のの本を見つけて一読してみました。横書き登場』、屋名池誠著、岩波新書

膨大な資料を網羅してまとめられたこの本によって日本における縦書きと横書きの歴史的な推移についてはほぼ見通せるようになっていると思います。ただ、縦書きと横書きそれぞれの機能性については、「結局、縦書き、横書きには殆ど優劣の差はないといえよう。」と結論づけられているように、「優劣」という観点で包括的に捉えられ、縦書きと横書きそれぞれの持つ機能的な個性、特質については掘り下げられることが少ないように思われました。個々の問題に付いての優劣の比較はともかく、何事も最終的に「優劣」の比較で結論づけるという行き方には問題があるように思います。総合評価としての抽象的な優劣の比較は、よほど大きな差が無い限り行ってはならない事だと思います。優劣はすべてケースバイケースで具体的に判断すべきものと思います。ただ、この本の場合は「優劣はない」という結論になっていることは救いだと思います。


優劣という評価を離れた、縦書きと横書きそれぞれの特質という面で、この本の中で最も興味深く思われた箇所は、日本の江戸末期に本格的な横書きが登場するようになってから左横書きが定着するまでの期間に生じた右横書きと左横書きとのせめぎ合いについて考察された部分です。このことの前提としてまず、縦書きの場合は実用上、上から下に向けて読み書きする以外にあり得ないのに対し、横書きの場合は右から左に読み進む右横書きも左から右に読み進む左横書きのいずれも可能だという事実があり、このことはこの本でも論じられています。この事実こそが、縦書きと横書きそれぞれの最大の特質につながることなのであり、さらに深く掘り下げることが必要なのです。

横書きの場合に左横書きと右横書きの何れも可能であるのに対し、縦書きの場合は実用上、上から下への方向しか取り得ないという事実は、鏡像問題、すなわち鏡に映った鏡像の左右が逆転して見えるという現象とまったく同一の原理に由来している。

1つの結論から言って、横書きの場合に左横書きと右横書きの何れも可能であるのに対し、縦書きの場合は実用上、上から下への方向しか取り得ないという事実は、有名な鏡像問題、すなわち鏡に映った鏡像の左右が逆転して見えるという現象とまったく同一の原理に由来していると言って差し支えありません。

鏡像問題について

鏡像問題という言葉がどういった種類の言葉であるのか、どういった分野あるいは学会または業界でどのように定義されて通用しているのか、よく分かりませんが、過去に新聞の科学欄にこの話題が掲載され、鏡像問題というテーマの下に心理学と物理学の研究者による研究が現在に至るまで発表され続け、専門の学術誌もあると言う事を知りました。それまで心理学方面で鏡像認識という術語があることは知っていました。これは人間や動物が鏡像を見て自分自身の姿であると認識できるかどうかという問題のようですが、鏡像問題の方は鏡像では現実と左右が逆転して見えるのは何故か、という問題のようです。しかし、鏡像認識の問題も鏡像問題に含まれることもあるようで、この場合は広義の鏡像問題とされ、左右が逆転して見える問題は狭義の鏡像問題とされるようなので、とりあえず虚像問題は鏡像の左右が逆転して見えるのは何故かという問題とみなして良さそうです。この問題に付いて、上記の新聞記事、ネット版毎日新聞の記事に触発され、この問題に付いて当時以前に考えたことや、当時改めて考えたことをブログに書いて公開しました。このブログ記事は、当のブログ記事の中では比較的多くのアクセスがあったようです。

この問題は基本的には次の様に整理できるように思われます。

1.鏡像の空間は現実の空間に対して、空間を構成する縦、横、および前後方向の3軸の中の1つの方向が逆転する。
2.逆転する軸方向は縦、横、および前後の何れともみなすことができるが、人は普通、それを横方向、すなわち左右方向に充てる。

問題は何故それが縦方向でも前後方向でもなく左右の横方向であるのか、ということにあり、ここで地球の引力が持ち出されたり、いろいろ議論があるようですが、基本的には、生命、生物の本質に関わる様に思われます。人間を含め、殆どの生物、とくに動物の身体は左右対称が基本型になっています。逆に言えば、鏡面対象になっている方向を横方向、すなわち左右と呼んでいるという事になります。

ちょうど当時、少しづつ読み進めていたカッシーラーの「シンボル形式の哲学」に見出された次の記述がもっとも根本的にこの原理を表しているように思われました。

☆ 視空間と蝕空間は、ユークリッド幾何学の測量的空間とは対照的に、ともに「異方性」と「異質性」をもつという点で一致している。「生物のもつおもな方向性、前と後・上と下・左と右は、視空間と蝕空間という二つの生理的空間において、ともに等価的でないという点で一致している。」 ― カッシーラー、「シンボル形式の哲学(木田元訳、岩波文庫)第二巻、神話的思考」より引用。引用中の引用は、原文の注記によればマッハによるそうです。

以上の引用中にある、前と後、上と下、左と右それぞれにおける異質性にもそれぞれ個性と違いがあり、少なくとも非常に明白に思われることは、前と後の異質性や上と下の異質性は、左右の異質性に比べて遙かに大きいとみなして差し支えないことです。現実の物や光景でも、絵でも、上下が逆さまになったり前後が逆になったりすれば誰でも気付きますが、左右が入れ替わってもすぐには気付かないし、気付いてもそれ程の違和感を感じません。何事においても天地が逆さまになればそれこそ大騒ぎですし、前と後もそうです。行列で並んでいても前と後の差は絶対的なものですが、左右の差は微妙なものです。左大臣と右大臣、右翼と左翼、左側通行と右側通行、こういう場合の左右の差は微妙なもので、いつの間にか入れ替わったりしています。その反面、論争の対立は常に左右の対立にされます。つまり同一平面上での対立は常に左右の対立になってしまいます。

以上のような上下と左右(前後はこの際除外し)それぞれが持つ本質的な個性が文字の縦書きと横書きの機能的な差異に関わってくるのは当然のことと思われます。端的に言って縦書きにおける上下の異質性に比べ、横書きにおける左右の異質性は遙かに少ないという事が言えるのです。このことから以下のようなことがすべて説明できるようになると思われます。

■ アルファベットによる英語などのヨーロッパ言語の記述が横書きでなければならないこと。
■ 数式が横書きに適していること。
■ 漢語、ハングル、そして日本語などは縦書きも横書きも可能であるが、横書きの場合は左横書きも右横書きも可能であること。
■ 横書きにおける有利さを比較した場合、漢語や日本語よりもアルファベットによるヨーロッパ言語の方がより有利であること。しかし、工夫によってはこれは改善できる。また漢語やハングルに比べて日本語の方が横書きにも有利である可能性がある。
■ 漢字仮名交じりの日本語は横書きの場合も縦書きの場合も漢語やハングル、あるいは仮名のみによる記述よりも有利であるが、この有利さは横書きにおいてより大きく作用する。
■ 縦書きの段組は横書きの段組に比べて短い場合が多いこと。
■ 横書きは速読性に優れ、縦書きは正確性、確実性に優れる可能性がある。

以上の項目それぞれ、回を改めて考察してみたいのですが、最後に掲げた、横書きは速読性に優れ、縦書きは正確性に優れるという点は、これまで指摘されたことはないのではないか、と推測しています。「横書き登場」においてもこのことには触れられていません。

速読性に優れることは、他方、誤りが生じやすいという可能性につながるように思われます。確かめたわけではありませんが、横書きでは誤記、誤読の可能性が高いような気がします

以上、今回はこれまでにします。

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The image and the medium that carries the image

(This is the English summary of the last article in Japanese)

It is hard to separate each other the image and the medium that carries the image.

However, virtual images in optics such as the mirror image and the magnifier image can be easily identified as pure images separated from the media.

There is no significant difference in reality between the virtual image and the image of the naked eye. If you are short sighted, the virtual image of eyeglasses can be clearer than the image of the naked eye.

The image of the photography, the cinema, videos, etc is derived from the real image in optics.

There is no difference in reality between the real image and the virtual image because the real image such as the image of the telescope becomes the true image only after you see it and when you see it, the real image is no more than the set of points the light passes and you are only seeing the image of the image source through the lenses. This situation is identical to seeing the virtual image.

So there is no difference in reality between the real image and the virtual image.

Imageries such as photo prints, video screens and the like are derived from the real image but are not the real image themselves. Those imageries are image sources themselves as well as are the carriers of the original real image

To see imageries such as photo prints is to see two different images, of which one is the original real image and the other is the image of the medium. And for the original real image, the other functions as the noise.

Therefore, the image of the medium itself that carries the original real image functions as a noise to the original real image.

This noise of the medium can be reduced optically.

◆http://www.te-kogei.com/patent/koho_imageglass.html

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