4つのテーマ別ブログ記事の更新情報に加え、テーマ外の脈絡のない内容をつぶやきのように綴っています。以前のタイトル「意味の周辺」は2011年12月以降、http://imimemo.blogspot.com/ にて更新を続けています。「意味の周辺」該当記事に対するコメントはhttp://imimemo.blogspot.com/ の該当記事に投稿して頂ければ幸いです。

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「意味の周辺」記事

白洲正子の西行、ソローの森の生活、コンノケンイチの宇宙論 、・・・・― 読後、読書中断、読書中、その他予定など

このブログではこれまで毎回一応は1つのテーマでまとまった内容を書いているつもりだったので、今回のような日記風のまとまりのない記事はちょっとそぐわず、フェースブックの近況とかで書くのに向いているかもしれない。しかしすべて、一応は本と読書に関わることなので、読後メモのカテゴリーを含むこのブログで書くことにしようと思う。今のところフェースブックだけよりは多くの人の眼に触れることでもあり・・・。

白洲正子の「西行」は、この真夏から9月の中頃にかけて、だいたい毎夜、寝る前にシャワーを浴びてから髪が乾く程度の時間読んでいたように思う。髪が乾くといっても今のこの頭髪では数分間でしか無いが、別にきちんと測って決めていたわけでもない。ページ数で10ページ読めることはあまりなかったような気もする。こういう読み方だったので仕事で忙しかった時期も続けて読むことができた。予想よりも密度の濃い本で、引用された西行その他の短歌や文章も読みつけていない古文なので難しい。やはり自分にとって古文は難しいことを思い知らされた。一口に古文といっても難しさは千差万別である。必ずしも旧いほうが難しいというわけでもないだろう。西行の場合は一部のよく知られた歌を除いて、歌も文章も相当難しくて著者の白洲さんの解説なしには皆目分からない場合が多かった。西行個人の歴史を含め、歴史的な知識も相当必要である。その歴史的な知識をこの本でかなり教えられたことはありがたかった。ちょうど司馬遼太郎の小説やエッセーのような感じで西行の個人史を含め、当時の日本史が断片的に再現される用な感じ。そういえばこの本の文体、ではないが、手法とでもいうか、書き方は「街道をゆく」に似たところがあるように思われた。多面的で自由な書き方であるといえると思う。

この本の前にはやはり同じような時間帯に鶴見和子著、および中沢新一著それぞれの南方熊楠関連本を読んでいた。こちらの方は必ずしも寝る前の短時間というわけでもなかったが。これらの読後感はツイッターに一度簡単に書いた。もちろんその短かさに比例して軽い印象だったわけではない。とりあえずという形である。そのときのつぶやきをコピーすると次のとおり。yakuruma
2011.08.14 20:44
鶴見和子著「南方熊楠」と中沢新一著「森のバロック」を読了。両者ともに素晴らしい本でした。名著だと思います。それにしても同じ著者(後者ですが)による最近の対談本「大津波と原発」で感じられた軽薄さと粗雑さは一体、何によるものなのだろうか。 via ついっぷる/twipple

「西行」のあと、偶然の手伝いもあって、同じ時間帯にソローの「森の生活」を読み始めた。偶然の手伝いというのは、たまたま大型書店の玄関先に設営していた古書コーナーで、250円の岩波文庫版を見つけて衝動買いをした結果である。何夜か読んだあと、翻訳だから仕方がないとも言えるが、文体が馴染めなくなった。思いついてグーグルを検索したら英語の原文は無料で読める。しかもイラスト付き原本の画像データもテキストデータも選択できる。しかし、この時間にはパソコンで読みたくないし、辞書も引きっぱなしというのも辛い。そこで今は電子書籍用端末かスマートフォンの選択のことで結構頭が一杯になっている。別にこの本を読みたいというわけではなく多目的で購入を検討している電子書籍向きのタブレット端末のことに気を取られてしまうのである。
それはそうと、西行とソローとの間の共通点または異質点を考えるのも面白いと思う。興味深い点は個人よりもむしろ社会的なものだ。ソローにとっては絶対に選択することはできなかったが、西行が選択できた出家という選択肢は当時の日本の支配階級に特有の制度だったような気がするが、この出家という制度は実に興味深いものに思われる。仏教国にはどこにもあるかもしれないが、しかし当時の日本の出家はインドやネパールやタイの出家とも随分異なっているのではないだろうか。日本文化と深い関係がありそうだ。

そうこうしているうちに、7、8、9月、と途絶えることがなく結構忙しかった仕事が一段落して時間ができたので、懸案の書籍をアマゾンに注文したのである。コンノケンイチ著「宇宙論の超トリック暗黒物質の正体」という本である。発刊されたのは数ヶ月前で、宣伝を見てかなり買う気になっていたのだが、店頭に置いている書店があまり見つからず、当時の財政事情もあり、購入を控えたいた処をこのような次第で他の2冊と一緒に注文した。

他の2冊というのは、カントの純粋理性批判の岩波文庫版とハイデッガーの存在と時間のちくま文庫版、何れも上巻のみである。これらは昔からいつかは読む気でいたのだが、読める状況になってから購入するつもりでいた。いつまでたっても読む状況にならず、今に至るまで購入する機会がなかった次第。今回、宅配注文ついでにとりあえず両方の上巻のみを購入しておこうという気になった。もっと具体的にこの両者を本気で読む気になったきっかけは、2年ほど前に1年位の期間をかけてカッシーラーの「シンボル形式の哲学」をひと通り、少なくとも字面を読んだ事による。この本は何らかの形で、両者の影響を受けていると言われることも、当然、1つの理由であり、一方その後、この書物の翻訳者である木田元氏の最近の著書を何冊かまとめて読んだことによる影響もある。実は氏がハイデッガーの専門家で権威でもあるということなど、それまで知らなかった。ハイデッガーその人についても正直言ってそれまでそれほど予備知識も興味もなかったのである。もちろん、カントの方はそうでもなかったが。

という状況で、昨日の土曜日は金曜日に到着した3点の書籍の中からコンノケンイチ氏の本を読むのに費やし、半分くらいまでを読み、さらに巻末にある著者と副島隆彦氏との対談を読んだ。

この本はアインシュタインの特殊相対性理論とビッグバン理論と、ホーキングの宇宙論を批判し、否定し、さらに著者独自の理論を展開した本であるが、特殊相対性理論と一般相対性理論を批判し、否定した本は昔、何冊か購入したことがある。まだパソコンもインターネットも普及していない頃だったが、少なくとも3冊ほどこの種の本を購入して、大雑把に読んだ経験がある。当時、コンノケンイチ氏の本も書店の店頭で何度も見ていたが、何故か、購入することはなかった。その後はあまりこの方面のことに興味を持たないようにし、この問題でそんなに何冊も本を購入する気もなくなっていたからかもしれない。ただ、この機会をきっかけに、特殊相対性理論が崩壊することに期待する気持ちを持ち始めたことは確かである。

という次第で、発刊のニュース以来、何れ購入するつもりでいたにせよ、先日注文することになった直接のきっかけは、もちろん、最近、多くのマスコミで伝えられた処の、高速を超えるニュートリノ粒子が発見されたとされるニュースである。今回このニュースが主要マスコミで伝えられ、世界的に話題になった理由の1つは間違いなく、この研究がCERNの大型加速器関連で行われた世界的な共同研究グループの研究と発表であったからだろうと思う。もしも、こういった発見が別の目立たないところで行われたとすれば、こんなにマスコミで取り上げられることはなかったのでは無いだろうか。

かつて読んだ何冊かのこの種の本を含め、この本の内容や最近の発見のニュース記事などの印象やそれらを読んで考えたことなど、また、別の場所でまとめてみたいと思う。ただ、1つ、今回改めて強く思い起こしたことは次のことである。カッシーラーの哲学ないし科学思想(すなわち、シンボル形式の哲学など)は今後、このような問題に係り合うに際しても、増々重要性を持つようになるのではないか、ということである。できればコンノケンイチ氏や対談をしている副島隆彦氏がカッシーラーの哲学についてどのように考えておられるか、あるいは考えられるかを知りたいものである。

もうひとつ、最初の「西行」に戻ってしまうが、この本で西行が平泉の藤原秀衡の下で義経に会っていたという話を始めて知った。会ったという証拠があるわけではないそうだが、状況から考えて会っていたに違いない。それにしてもこれまでに見たり聞いたりした義経の物語やドラマで義経と西行との邂逅の場面を見たことが無いのは何故なのだろうか、とふと思った。それで良いのかもしれないが、そういうことがあっても良いのではないかと思う。小説ではあるようだ。

何故か最近、義経のことが気になりだした。何故か、と書いたが、きっかけはある。去年だったか、義経伝説をかなり詳しく取り上げたブログ記事に遭遇したからである。http://intec-j.seesaa.net/category/8271869-1.html
このブログ記事では義経=ジンギスカン説とともに義経=清朝祖先説がかなり詳しく説明されていた。個人的にこういう諸説を多少とも具体的に知ったのは始めてであったので、この時には強い印象を受けた。それ以来、義経伝説も頭から離れない事柄の1つになっている。このブログの著者自身は、義経は少なくとも北海道までは落ち延びたということに80パーセントの信ぴょう性を感じているとのことだ。先ほどの相対性理論の問題などとは全く別の問題には違いないが、これもアカデミズムと諸説との関係という共通項はあるといえばある。

最近の読書体験という括りで、日記風に脈絡もなく書き連ねてきたが、日記のつもりでついでにもう一件、メモしておこう。今、最近リリースされたCDで、ピアニスト、バドゥラ=スコダがベートーベン作曲当時のピアノを用いて録音したピアノソナタ全集9枚組のボックスを購入したくなったのである。しかし3万円近くという価格に躊躇している。欲しい理由は3つある。一つは今だにベートーベンのピアノソナタ全曲を聴いたことがなく、全曲を聞きたいという思いは前からあった。次の一つは、フォルテピアノと呼ばれる旧い形式のピアノの音が好きだということ。ただ、ベートーベンの音楽をフォルテピアノで聞きたいとは思っていなかった。特にフォルテピアノの音色にとりつかれたのはシューベルトとシューマンの歌曲伴奏の音の美しさに魅了された時からだった。それでも幾つかのレビューを見てみるとフォルテピアノによるベートーベンも良さそうである。後の一つはバドゥラ=スコダというピアニストに信頼がおけること。このピアニストの演奏では、昔、LPレコードでシューベルトのピアノ曲のレコード1枚か2枚を購入して好感をもった以後、ラジオで何度か聞いたことがある程度である。これまで演奏批評とかレコード批評で、彼のベートーベン演奏の話題を見たり聞いたりした記憶がない。しかし信頼できるピアニストだと思えるし、ネットでレビューを見ても評判がいい。

・・・・・それにしても現代の日本人は忙しく、お金もかかる。一方で古典の西行も読まねばならず、一方でベートーベンを聴かねばならず・・・・。
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