4つのテーマ別ブログ記事の更新情報に加え、テーマ外の脈絡のない内容をつぶやきのように綴っています。以前のタイトル「意味の周辺」は2011年12月以降、http://imimemo.blogspot.com/ にて更新を続けています。「意味の周辺」該当記事に対するコメントはhttp://imimemo.blogspot.com/ の該当記事に投稿して頂ければ幸いです。

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「意味の周辺」記事

意味とクオリア

クオリアという言葉とその意味とを知ったのはつい最近のことである。

一昨年から昨年にかけてだったか、NHKテレビで今もやっている「仕事の流儀」という番組を、続けて見ていた時期があった。 最初にこの番組を見たとき、この番組キャスターの茂木健一郎さんの話しぶりは好感が持てたし、インタビュアーとしてのゲストへの質問とコメントも充実した内容で聞き応えがあるように思われたのだけれども、いつも最初に、枕詞のように「脳が考え、脳が感じ・・・」と、脳を主語にしたフレーズを連発されるのには辟易し、感情的で申し訳ないが、その後の番組の内容を聞く楽しみも割り引かれてしまうのだった。 その後この番組はゲストによって見たり見なかったりしたが、時間帯が変わってからは見なくなってしまった。 少なくとも当時は、番組の内容自体は面白かったが、ただ、毎回聞いているうちに、音楽あるいは音響効果なども使った演出とナレーションが鼻について来たこともある。 とにかくこれがきっかけとなって、著書を買って読むことはなかったが、インターネットで茂木さんのブログなどを見ることがあった。 そこでクオリアという言葉を知ることになったのだけれども、ブログではどのページでも、そのときに見た限りにおいて、クオリアの意味についての説明はなかった。 しばらくは特に気にしていなかったのだが、あるときに、たぶんウィキペディアで、その意味を調べ、それが「感覚質」と訳されるもので、色などの感覚内容のことだと知ることになった。 ちょうどその頃、はてなで公開しているブログ・発見の「発見」のある記事に、ハンドル名を蒼龍さんという方からコメントを頂き、そのコメントの中で、氏のブログ中のクオリア論を紹介されたのをきっかけに、クオリアについてさらに考える様になった。 氏の、そのクオリア論は茂木さんのクオリア論の批判として展開されていたことも興味をひかれた理由になっている。

『日本の俗流クオリア論を撃破する http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/20071114/p1』(2008/03/13 00:29)』

そのクオリア論で蒼龍さんは、茂木さんのクオリア論を批判したうえで、クオリアの存在は科学的に意味が無く、哲学的にも重要ではないという趣旨を述べておられる。 私は「脳がクオリアを生み出す」という表現にも違和感、抵抗を感じるのだが、クオリアを蒼龍さんのように無意味なものとも思えないのである。

蒼龍さんの同じブログで4月1日の記事で「クオリアが脳に影響を与える」という現象があり得るかどうかが問題になっている。

クオリアが脳に影響を与える??
http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/20080401 

これは経緯から、飲茶さんという方のサイト:
哲学的な何か、あと科学とか
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/gakuFrame.html

で述べられている事に対する論評と思われ、このサイトで問題にされている「クオリアが脳に影響を与える」という現象は定義上ナンセンスであるとしている。 定義という言葉の意味そのもののが抱える問題はさしおき、私には「クオリアが脳に影響を与える」というのは無意味とも思われない。 ただ、「脳がクオリアを知る」という表現には抵抗を感じるのであるが。

このサイトで例として引かれている現象、すなわち、赤信号を見て危険を感じ、行動に変化を生じるという、ごく普通の人の行動を物理的に説明するのに、特にクオリアを持ち出す必要がないということは、両者とも一致している。 ところが飲茶氏の方は「脳がクオリアを語る」、「脳がクオリアの概念を知る」、あるいは「脳がクオリアに気づく」、といった表現から、クオリアの存在自体と「クオリアが脳に影響を与える」ということ自体は疑えない事だとしてそれ以後の議論を進め、メカニズムは謎であるものの、物理的に脳がクオリア発生することを認めざるを得ない事としている、と説かれているようである。 ここでは「クオリアが脳に影響を与える」という問題から「脳がクオリアを発生する」という問題への転換が見られる。 これをフィードバックのメカニズムで説明されているようであるが、このあたりはよく分からない。

この議論ではクオリアが存在するとすれば、それは脳が発生したものでなければならないという前提にとらわれているような気がする。 当然のことながら、仮に、心は脳から単独に発生するものだという帰結が約束されているとしても、依然として心と脳とは全く独立した別物である。 別ものである心と脳との関連に関する仮説に過ぎない。 性急に、心が認識するところのものであるクオリアが脳から発生するものだというような結論を下す前に、クオリアが脳に影響を与えるという可能性について、もう少し多面的に検討してみる方が、またクオリアの意味を深めること、精神生活のなかでクオリアの存在の意味、クオリアの存在を前提とせずに心理現象、精神生活の豊かな考察が可能だろうかという問題に対してもっと幅広く考察することの方が当面は重要な事なのではないかと思う。 もちろん脳からクオリアへの影響あるいは寄与(脳がクオリアを発生するということではなく)があるということは当然のことである。 だから、クオリアがどこから来るのかといった問題は後回しとし、クオリアと脳との相互関係といったものが有るかどうかを多面的に、説得力を持つように証明し、あるとすればどのようなものかを研究することが当面の課題として興味が持たれるところではないだろうか。

色彩はもちろん、イメージそのもの、また音、音色、その他諸々の感覚内容を伴う心の状態と脳との関係を考える場合、上記の赤信号とそれを見て影響を受ける人の行動のような例の他に、全く性質の異なった現象がまだまだ、色々とあるはずである。 まず記憶という問題がある。 記憶があるならまた当然、想像力という心の働きがある。 さらに、幻覚、夢、また可能性として神秘体験といわれるものもある。 こういったものをクオリアの存在を前提とせずに考え得るかどうか。

また心理的な色彩学とか音楽理論とか、そういったものもクオリアの存在と有意味性、重要性を前提とせずに成り立つかどうか。

一方、共感覚というものがあるといわれる。 特定の音から特定の色を知覚したりする、要するにある感覚の特定の内容が異なった感覚の特定の内容を呼び起こすという現象である。 この現象は脳内の異なったそれぞれの感覚に対応する回路がつながっていることから起こると説明されており、確かにそう考える事は分かりやすい。 しかしこれも具体的に、正確に分かっているとは思えず、ただそう考えると分かりやすいということではないだろうか。 ウィキペディアで見た範囲だけれども、共感覚の場合は実際に感覚器官に刺激が生じている訳ではないらしい。 この現象を異なった感覚のクオリア同士の接点のようなもので生じると考えること、あるいはクオリアの領域内で生じている現象であって脳機能が関わっていないというような仮定も出来るはずである。

さらに重要な場合として、言葉とコミュニケーションが介在する場合がある。 先の赤信号の例を用いれば、盲目の人(先天的な盲人と後天的な盲人両者を想定する必要があるが)に対して、「赤信号だよ」と教えたりする場合である。 こういう場合、例えば赤という言葉の意味は何かと考えれば、それは時と場合とによって様々なニュアンスがあろうけれども、基本的にはそれは「赤のクオリアだ」としか言いようがないのでは有るまいか。 そしてこの言葉が盲人の行動に影響を与えたとすれば、紛れもなく「クオリアが脳に影響を与えた」ということが出来るのではないか。 当然、先天的な盲人の場合はどうかが問題になる。 先天的な盲人の場合、目下のところ、赤の意味は赤の想像であるとしか言いようがない。 いずれにしてもこの場合の「意味」内容は物理現象であるとも、生理現象でもあるとも言えないと思うのである。
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コメント:

No title

どうも、言及されている蒼龍です。

私が一番困ったのは、クオリアを科学で扱えるかのような(一時の)茂木さんの口振りです。クオリア論は哲学的になら大事だと思いますが、科学的にはそうではありません。クオリアが全く重要でないと言いたい訳ではありません、とここで弁明させてください。クオリアの因果や存在は話がややこしくなりそうなのでパスします。はっきりと言えることは、いちいち特殊な専門用語を使う必然性はあまりなくて、少なくともクオリアなんて変な用語を使わずとも、赤の感覚とか赤の意味とかの常識的な言葉を用いるだけでたいていは十分だと思います(哲学的な議論に巻き込まれる言い方をする必要はない)。

それから、日本のウィキペディアの項目は信用できないことがあるので、以前ブログで公開した翻訳を載せておきます。
>>
感覚や経験は幅広く変化する。例えば、私が紙やすりに指を走らせる、スカンクの匂いをかぐ、指に鋭い痛みを感じる、明るい紫が見える、激しく怒る。このそれぞれの場合において、私は全く異なる主観的な性格を伴った心的状態の主体である。そこには私がそれぞれの状態で経験しているような何かがあり、それが持つ何かしらの現象学がある。哲学者はよく内省的に接近可能な私たちの心的生活の現象的側面を指して「クオリア」(単称では「クアレ」)という用語を用いる。この用語の標準的な広い意味では、クオリアの存在を否定するのは難しい。次のような問題では特に意見が一致しない。どの心的状態がクオリアを持つか、クオリアはその伝達物の内在的特性か、クオリアは頭の外側と内側との両方の物理的世界にどう関連しているのか。クオリアの地位は哲学では熱心に議論されているが、その理由の大部分はクオリアが意識の性質への的確な理解に対する中核であるからだ。クオリアは心身問題のまさに中心軸なのだ。
スタンフォード哲学百科の項目「クオリア」(http://plato.stanford.edu/entries/qualia)より 
<<

No title

どうも、いつもご丁寧なコメントを有り難うございます。

たしかにクオリアという言葉は無ければないで、別に不自由は無いと思いますが、あればあったで便利な言葉ではあるように思いますね。

クオリアは確かに物理学や生理学でも扱えないと思いますが、心理学では扱えるような気もしますが。もっとも私は現在の心理学についての知識はありませんが。また、これは科学とは言えないのでしょうが、音楽理論とか絵画理論など、芸術学とでもいうべき方面では特に言葉として言及する必要は無いとしても、その存在を前提とせずにはそういう分野は存在し得ないように思います。

スタンフォード哲学百科の項目中で、「どの心的状態が・・・」以下の部分では科学でクオリアが扱えるかのような印象がしないでもないですが、この辺とところを考えるのはは今のところ、お預けです。

ただ、「クオリアは心身問題のまさに中心軸なのだ」というのは本当にそうだと思います。
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