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哲学の科学批判 ― シンボル形式の哲学第三巻の序論を読んで

前巻に引き続きこの書物の第三巻を読み始め、とりあえず序論の部分をかなり不消化のまま、一応読み終えた。このような本をそう簡単に消化しながら読めるわけはないが、この序論は読みやすい箇所と解りづらい箇所とが分かれているような感じだったせいか、読みやすい箇所に集中して読んでしまった感じだ。

この巻、「シンボル形式の哲学第三巻 認識の現象学」の第一部が始まる前にはこの可成り長い序論がおかれている。この部分で1つのまとまった構成になっている。序論という形式のとおり、この巻の解説のようになっている部分もあるのだろうが、それよりもこの部分にはかなり著者の意図、目論見というものが率直に語られているようにも思われた。感情的とさえ思われる箇所がある。


この序論自体が4つの節に分けられ、それぞれに見出しが付けられているが、各節に一貫して可成り強い調子での科学批判がこの序論のテーマになっているとも見られる。もちろんこの序論の目的はこの書物全体のテーマであるシンボル形式という概念の位置づけということになるのだろうが、それが科学批判に平行していることが分かる。

第一巻が言語批判ということも出来、第二巻が神話批判ということも出来るわけだから、このことは当然とも言える。それにしてもこの序論を読むと当時のカッシーラーは科学批判に対して相当切実なもの、必要性を感じていたように思われる。というのも科学に対する哲学の優位性についての、感情的とさえ思えるような表現が見られるからである。たとえば、

「哲学は、言語という媒体と言語的諸概念という乗り物に分かちがたく結びつけられている単なる科学が達成し得ない事を達成してみせる。」

哲学は言語を超える可能性があるが、科学はいつまでたっても言語を超えることはできないということだろう。

それはともかくも、現在も科学至上主義あるいは哲学よりも科学を優位におく傾向の人々が言葉の使用に関して無神経、無反省である傾向は否めないような気がする。端的に言っていわゆる「ニセ科学」とか「トンデモ」というような非論理的な言葉を術語のように使う人たちである。

特定の言葉の意味を深めることなく、いったん形式的に定義してしまえば述語として固定してしまい、無反省に使用し続けられる。

「温暖化ガス」、「温室効果ガス」などもその最たるものだろう。とくに「温室効果ガス」はちょっと無謀とも言えるほどの使い方である。現実の温室で起きている温室効果には、メタンやCO2に限らず如何なるガスも関わりがない。この場合の温室効果は比喩的に用いられているに過ぎないのに、比喩ではないような印象を与える。英米のニュース記事では以前ではheat trapping gas ?というような表現も良くあったが、最近ではgreenhouse gas (温室ガス) という表現が一般的になっている。日本で言う温室効果ガスに輪をかけて乱暴な表現である。こういう乱暴な比喩と省略は英語の方がひどいところがある。古くからゲーテが言っているように、比喩が術語として一人歩きするようになれば、手に負えないことになりがちだ。

元に戻って、
この序論では上記のような科学批判に引き続き、マッハとベルクソンの哲学が簡単に紹介され、それらに批判が加えられる。正確に言えばマッハとベルクソンも科学を批判しているわけだが、その科学批判の不徹底さに批判が加えられているように見える。ここでシンボル形式というものが軸になって論が進められているが、ここらあたりが特に難解だ。とりあえず先に進むしかない。



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