4つのテーマ別ブログ記事の更新情報に加え、テーマ外の脈絡のない内容をつぶやきのように綴っています。以前のタイトル「意味の周辺」は2011年12月以降、http://imimemo.blogspot.com/ にて更新を続けています。「意味の周辺」該当記事に対するコメントはhttp://imimemo.blogspot.com/ の該当記事に投稿して頂ければ幸いです。

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「意味の周辺」記事

情報と信号 ― 脳とコンピューター

(機械とコンピューターについて)
普通コンピューターはその正式な定義はともかく、情報を処理する機械、情報処理機とも考えられている。機械であることは確かであるが、一般に日本語で機械あるいは何々機という場合の「機」という言葉の意味には微妙なところがある。例えば洗濯機と掃除機を比べてみても微妙な違いがある。洗濯機は、特に最近では自動化が進んでいることもあり、それ自身が洗濯をしてくれる機械というニュアンスがある。洗濯ロボットと言ってもそう変わらない。ところが掃除機の場合は普通、人間がそれを使って掃除をする道具という意識でつかわれている。厳密に考えれば洗濯機の場合も洗濯機自体が「洗濯という概念」を持ちながら洗濯しているわけではなく(もちろん洗濯ロボットも)、人間がそれを使って洗濯しているので、掃除機の場合とそれほどの変わりはない。英語ではそもそも機械という言葉もそれほど使うことがない。洗濯機はWasher、掃除機は Cleaner、掃除に使う薬品類もCleanerであり、掃除をする人もCleanerと言っておかしくない。はっきり言って英語のこの辺りの用法は簡潔ではあるが大ざっぱきわまりない。

洗濯機と掃除機のこの微妙な意味上の違いが現実に何かの問題を引き起こすというはまずあり得ない。実際に洗濯機が洗濯という概念を持ちながら洗濯していると考える人はまずいないだろう。しかし、これがコンピューターとなるとそういうわけには行かなくなってくる。コンピューターはデータあるいは情報を処理する機械と思われている。情報とは本来意味を持ったもの、あるいは意味そのものを指しているのであってコンピューターが実際に情報を処理しているのであるとすればコンピューターは情報の内容を理解出来るのでなければならない。実際、コンピュータ用語としてはコンピューターがあたかも情報を理解しているかのような言葉の用法が頻繁に使用されている。要するに擬人化である。コンピューターあるいはソフトが何かを「認識する」というような表現が実に頻繁に使用されている。こういう擬人化はコンピューター用語としては表現の能率化という意味で仕方のないことであり、必要なことでもあるのだろう。ただこういう事情からコンピューターに心を持たせることが出来るようになるという錯誤に繋がって来ているのだという可能性もある。

少なくとも現在、普通にはコンピューターが心をもっていると考えている人はいない。とすればコンピューターが情報を処理しているというのは正確には誤った言い方であり、人がコンピューターで(を使用して)情報を処理しているのだということは誰の目にも明らかな事であろう。ではもっと正確な言い方はないものだろうか、と考えてみると、信号という言い方が使われている場合もある。信号といえば情報よりは具体性のある、あるいは機械と親和性があるとも言える物質的なものという印象がある。すなわち、電気とか光エネルギーとか化学物質とか、少なくとも物理的なものである。この場合も具体的に電気とか光とか言わずに「信号」という以上、情報と同様、多分に意味性を帯びていることは確かであり、厳密には信号の操作や処理を行うのも最終的には人間である事には変わりはないのであるが、それでも「情報」よりは正確だといえる。またコンピューターは人間が作ったものであり、当然、作った人がいる以上、誰にでもという訳ではないが、解るべき人には仕組みが解っている筈だし、どのように動作しているのかも分かった上での言葉の用法である。信号も現実には何ビットかの電気信号であることが解った上で情報とか信号とかいった言葉を便宜的に使っているだけである。仕組みが全く解っていない人でも少なくとも電気信号であることくらいは分かっている。

(脳科学における情報と信号)
一方何かとコンピューターに比較される脳について考えてみたい。コンピューターに比較されることにより、脳についても情報を処理しているという表現が頻繁に使われる。脳全体についても使われるし、部分についても使われる。ここで、もちろん人間の場合だが、脳とその人そのもの、つまり人格とを同一視するかどうかは非常に重要な問題である。さらに脳全体(辞書では脳波中枢神経系から脊髄を覗いた部分と書かれているのでそれに従うとして)と脳の部分、特に大脳の部分(脳科学の本には前頭葉とか後頭葉とかの他にさらに細かくブローカ野とか何々野、さらには運動野とか聴覚野とか機能と結びついた名前の部分がある)とで同じように考えて良いものかどうかという問題も生じてくる。

すくなくとも脳の小部分、つまり何々野というような部分を対象とする場合、これを人格と同一視することは明らかに無理である。人そのものでないとすれば何か、人体の一部であることは間違いがないが、その人そのものつまり人格そのものと見なすことは無理である。また人格を部分に分けると言うことも無理だろう。もっとも精神分析では人格を部分に分けて考える様なところもあるかもしれないが、はっきりしたものではないだろうし、それが脳の部分に対応しているわけでもなく、現在の脳の研究者の多くはそういう分け方は当然否定している筈である。また無機物と同列に扱う事は無理であるが、情報の意味を理解出来る人格そのものでないことは明白である。とすればコンピュータが情報処理をしているというのが擬人的な比喩であるのと同様にこれも比喩的に「情報」といっているだけであり、情報を処理しているという言い方を適用するには不適当だろう。もし情報を処理しているというなら、脳内に多数の人格が住んでいて、各自の役割に応じた情報処理をしていると考えるより仕方が無い。しかしそういう風に考える人は余りいないだろう。少なくとも科学者を自認する人がそう考えるとは思えない。とすればそういう各部分部分が情報を処理しているという言い方は不適当であり、そういう考え方で論を進めると言うことはあまりにも漠然と現実性のない結論に導かれる可能性が大きいと思われる。

そこで信号を処理するという仮説の立て方がまだ具体性があるのだが、そうなると当然もっと具体的な描写を迫られることになる。信号を伝達するものといえば化学反応を起こす物質の移動か、電気的な動きか、光、その他のエネルギーといった物質的なものに限られる。そうなってくるとそれらが実際にどのようなメカニズムでどのように動きどのように「処理」されているのか何らかのイメージを描けなければならなくなる。それが出来ないから「情報」という言葉でごまかして(意図的ではないにしろ)いるだけではないのかという疑いが起きるのである。

では脳全体としてはどうか。脳全体を情報処理のシステムと考える場合である。情報を文字通りの意味で処理できるのは情報の意味が分かる人格すなわち心を持つものでなければならない。とすれば脳と人格とを同一視することになる。これは自己矛盾と言える。少なくとも人の心を脳の物理的メカニズムで説明できる筈であり出来なければならないという考えの脳科学者にとっては自己矛盾と言える。なぜなら情報は物理的なものではないからである。情報は意味であって意味の分かるもの同士でやりとりするものであり、意味を理解できる者だけが処理できるものである。情報のレベルであれこれを推定して仮説を立てたりしても、それを物理的なものに還元できない限り物理的レベルに還元した事にはならないからである。意味を物質あるいは物質的な現象に還元することなどできる訳がない。意味は何度取り出しても減ったり無くなったりすることがない。全く同じ意味が二つ存在することもできない。忘れることが出来る。また思い出すことも出来る。

以上のように、全体としてにしろ部分的にであるにしろ、脳内で何か情報が処理されているという想定に基づいた仮説の立て方は科学的な思考法としてはどう考えても矛盾があり、無理がある ― 脳内で物理化学的なプロセスしか起きていないという前提に立つ限り。

(付記)
実は、この稿は前回の「言語の脳科学」について述べた感想に続く文脈で書いているが、もう一つの契機がある。それはやはり「言語の脳科学」に書かれていた次の記述がきっかけになっている。
「ペンフィールドほど人間の脳を直接刺激して反応を調べた人はいない。・・・・それにもかかわらず、ペンフィールドは、心が脳とは別物であるという二元論の立場を唱え続けた。・・・・失語症の研究で有名なゲシュビントが、ペンフィールドに会って科学的根拠の乏しい二元論を一般向けに宣伝しないように、と抗議したという逸話が残っている。」

この記述を私はあるブログサイトでやりとりしていたコメントに持ち出したのだった。そのときの文脈は還元主義についての文脈であったのだが、私自身よく還元主義と二元論の問題について整理した上ではないままにこの記述を引用して問題をかき混ぜてしまったこともあり、そこでつまずいてしまったのだが、とにかくペンフィールドがいわゆる二元論を主張した人として有名なことや、他にも二元論を説いた人としてエックルスという有名な研究者がいたことも教えられた。

私は今回、ペンフィールドと言う名前には何処かでであった記憶はあったのだが、何処で出てきた名前かには全く記憶がなかった。これを機にネットで少し調べてみた。そして見覚えのあるイラストが出て来、思い出したのだが、この人のそういった面を知ったのは初めてだった。そして著書の紹介記事なども読み、著書そのものは未だ読んでいないが、上記の点で自分と似た考えを持ったと思われる優れた脳研究者の存在を知って安心したこともこの稿を書く動機の一つになった。

(付記2)
二元論の問題、心と身体の二元論が科学と相容れないものかどうか、またこれが哲学的な、もっと根源的な二元論と同じ事なのか、といった問題は今は避けたい。ただ、要素還元論と心的なものが物理的なものに還元できるという意味での還元主義とは別問題で同列に扱う事は出来ないと思う。
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