4つのテーマ別ブログ記事の更新情報に加え、テーマ外の脈絡のない内容をつぶやきのように綴っています。以前のタイトル「意味の周辺」は2011年12月以降、http://imimemo.blogspot.com/ にて更新を続けています。「意味の周辺」該当記事に対するコメントはhttp://imimemo.blogspot.com/ の該当記事に投稿して頂ければ幸いです。

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「意味の周辺」記事

解像度の意味 ― 「相対的」解像度と「絶対的」解像度を区別すればどうだろうか

「解像度」という言葉は一応は英語の「resolution」の日本語訳のような印象があるが、必ずしもそうとは限らないようだ。resolution は分解能と訳される場合も多く、こちらのほうはどちらかと言えば機械装置の性能といったニュアンスが強いような気がする。解像度の方は主として画像関係の技術用語として使用されてきたように思われるけれどもオーディオの評論の世界でも使用されているようだ。こちらは専門的には分からないが、多くの音源、録音される前の楽器などの音源が分離して聞き取れる程度のような意味らしく、そうだとすれば、今のところは数値的に表せるような概念ではないようである。

画像関連技術で使用される場合、解像度という言葉は当初、DPIのことではなかったのだろうか、・・・と思っていたが、今ネット検索してみると次のような文例が見つかった。
"Resolution and DPI (dots per Inch) are often used interchangeably, but they are quite different.(解像度とDPIとは全く異なる概念である) "、
"Resolution is the number of pixels in the horizontal direction by the number of pixels in the vertical direction.(解像度とは縦の画素数×横の画素数のことである)"― http://www.dsbglobal.com/ishrink/About%20Images.htm

実のところ、私は解像度とは本来DPIのことだと思っていたので、テレビやディスプレイのカタログで縦横のドット数のことを解像度と表現されているのをおかしいのではないかと思っていたのだが、間違っていたのは私の方であった。

しかしカタログなどで大抵、解像度については記載されているが、DPIに相当するデータについては記載されていないことが多いのは不満である。

それはそれとして、「解像度」という概念からすれば、どちらを指してもおかしくはないよに思う。現在定義されている解像度は「特定の1つの画像における解像度」であり、DPIの方は「絶対的な長さあるいは面積における解像度」といえるように思う。従って「相対解像度」と「絶対解像度」という風に区別すればどうだろうか。


最近、スマートフォンやタブレットPCなどで非常に精細なディスプレイが見られるようになり、解像度も多種多様な製品群が市場に出てくるようになった。解像度を正確に、適切に表現することは重要なのではないかろ思うのだが。
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「意味の周辺」記事

自然、または地球の「意味」と気象 ― 芸術が欺瞞に陥らないように

自然、または特に昨今では地球という言葉で人々が意識する意味の範囲はその時どきの文脈で大きく異なる。人間を自然に含めるかという大問題はこの際、問わない。また生きた生物も含めないようにしよう。それでも状況によって自然の意味範囲は随分異なるものである。

ごく普通に自然という言葉を使う時、多くの場合は地表の環境、便利な定義を使えば「気象」に関わる範囲内といえるのではないだろうか。

少なくとも昼間はそうだろう。夜になって星空が見えるようになれば、宇宙の一部も視野に入ってくるかも知れない。まあだいたいそんなところだろう。要するに殆どの場合は目にみえる範囲しか入っていないのである。

このように考えると、昨今、「自然エネルギー」という言葉が意味するものが通常、風力と太陽光のエネルギーを意味するようになったことも納得できるというものである。だいたい気象に関わる範囲内の自然を単に「自然」と称しているといえよう。しかしそれが合理的であるということにはならない。

本来の自然、少なくとも「地球」全体を考えるのであれば、気象に関わる部分は表面のごく一部であることは自明のことである。マントルや地球の中心部まで行かずとも、地殻や地下資源、エネルギー関連では石炭石油も自然の一部である。ガンマ線やアルファ線などの放射線も自然の一部である。当然自然放射線も、宇宙線も紫外線も、太陽光と同様に自然の一部である。

多くの人にとって自然という言葉をつかうとき、実際に目にみえる部分あるいは五感の感覚で直接感じる部分しか視野になく、意識していないということを銘記すべきだろう。これは芸術家の場合も同様である。むしろ芸術家こそこの陥穽に陥りやすいのではないだろうか。

多くの芸術家はその限界に気づく機会が少ないのではないだろうか。であるからこそ科学が必要であり、また経済学や倫理学や社会科学が必要なのである。もちろん科学ですべて事足りるというわけではない。

視野の狭さは欺瞞につながる。芸術が欺瞞に陥る事なかれ。


この文章は今夜、NHK・Eテレの日曜美術館「風の彫刻家 新たな挑戦~新宮晋~」を見た後の感想の一部です。

「意味の周辺」記事

白洲正子の西行、ソローの森の生活、コンノケンイチの宇宙論 、・・・・― 読後、読書中断、読書中、その他予定など

このブログではこれまで毎回一応は1つのテーマでまとまった内容を書いているつもりだったので、今回のような日記風のまとまりのない記事はちょっとそぐわず、フェースブックの近況とかで書くのに向いているかもしれない。しかしすべて、一応は本と読書に関わることなので、読後メモのカテゴリーを含むこのブログで書くことにしようと思う。今のところフェースブックだけよりは多くの人の眼に触れることでもあり・・・。

白洲正子の「西行」は、この真夏から9月の中頃にかけて、だいたい毎夜、寝る前にシャワーを浴びてから髪が乾く程度の時間読んでいたように思う。髪が乾くといっても今のこの頭髪では数分間でしか無いが、別にきちんと測って決めていたわけでもない。ページ数で10ページ読めることはあまりなかったような気もする。こういう読み方だったので仕事で忙しかった時期も続けて読むことができた。予想よりも密度の濃い本で、引用された西行その他の短歌や文章も読みつけていない古文なので難しい。やはり自分にとって古文は難しいことを思い知らされた。一口に古文といっても難しさは千差万別である。必ずしも旧いほうが難しいというわけでもないだろう。西行の場合は一部のよく知られた歌を除いて、歌も文章も相当難しくて著者の白洲さんの解説なしには皆目分からない場合が多かった。西行個人の歴史を含め、歴史的な知識も相当必要である。その歴史的な知識をこの本でかなり教えられたことはありがたかった。ちょうど司馬遼太郎の小説やエッセーのような感じで西行の個人史を含め、当時の日本史が断片的に再現される用な感じ。そういえばこの本の文体、ではないが、手法とでもいうか、書き方は「街道をゆく」に似たところがあるように思われた。多面的で自由な書き方であるといえると思う。

この本の前にはやはり同じような時間帯に鶴見和子著、および中沢新一著それぞれの南方熊楠関連本を読んでいた。こちらの方は必ずしも寝る前の短時間というわけでもなかったが。これらの読後感はツイッターに一度簡単に書いた。もちろんその短かさに比例して軽い印象だったわけではない。とりあえずという形である。そのときのつぶやきをコピーすると次のとおり。yakuruma
2011.08.14 20:44
鶴見和子著「南方熊楠」と中沢新一著「森のバロック」を読了。両者ともに素晴らしい本でした。名著だと思います。それにしても同じ著者(後者ですが)による最近の対談本「大津波と原発」で感じられた軽薄さと粗雑さは一体、何によるものなのだろうか。 via ついっぷる/twipple

「西行」のあと、偶然の手伝いもあって、同じ時間帯にソローの「森の生活」を読み始めた。偶然の手伝いというのは、たまたま大型書店の玄関先に設営していた古書コーナーで、250円の岩波文庫版を見つけて衝動買いをした結果である。何夜か読んだあと、翻訳だから仕方がないとも言えるが、文体が馴染めなくなった。思いついてグーグルを検索したら英語の原文は無料で読める。しかもイラスト付き原本の画像データもテキストデータも選択できる。しかし、この時間にはパソコンで読みたくないし、辞書も引きっぱなしというのも辛い。そこで今は電子書籍用端末かスマートフォンの選択のことで結構頭が一杯になっている。別にこの本を読みたいというわけではなく多目的で購入を検討している電子書籍向きのタブレット端末のことに気を取られてしまうのである。
それはそうと、西行とソローとの間の共通点または異質点を考えるのも面白いと思う。興味深い点は個人よりもむしろ社会的なものだ。ソローにとっては絶対に選択することはできなかったが、西行が選択できた出家という選択肢は当時の日本の支配階級に特有の制度だったような気がするが、この出家という制度は実に興味深いものに思われる。仏教国にはどこにもあるかもしれないが、しかし当時の日本の出家はインドやネパールやタイの出家とも随分異なっているのではないだろうか。日本文化と深い関係がありそうだ。

そうこうしているうちに、7、8、9月、と途絶えることがなく結構忙しかった仕事が一段落して時間ができたので、懸案の書籍をアマゾンに注文したのである。コンノケンイチ著「宇宙論の超トリック暗黒物質の正体」という本である。発刊されたのは数ヶ月前で、宣伝を見てかなり買う気になっていたのだが、店頭に置いている書店があまり見つからず、当時の財政事情もあり、購入を控えたいた処をこのような次第で他の2冊と一緒に注文した。

他の2冊というのは、カントの純粋理性批判の岩波文庫版とハイデッガーの存在と時間のちくま文庫版、何れも上巻のみである。これらは昔からいつかは読む気でいたのだが、読める状況になってから購入するつもりでいた。いつまでたっても読む状況にならず、今に至るまで購入する機会がなかった次第。今回、宅配注文ついでにとりあえず両方の上巻のみを購入しておこうという気になった。もっと具体的にこの両者を本気で読む気になったきっかけは、2年ほど前に1年位の期間をかけてカッシーラーの「シンボル形式の哲学」をひと通り、少なくとも字面を読んだ事による。この本は何らかの形で、両者の影響を受けていると言われることも、当然、1つの理由であり、一方その後、この書物の翻訳者である木田元氏の最近の著書を何冊かまとめて読んだことによる影響もある。実は氏がハイデッガーの専門家で権威でもあるということなど、それまで知らなかった。ハイデッガーその人についても正直言ってそれまでそれほど予備知識も興味もなかったのである。もちろん、カントの方はそうでもなかったが。

という状況で、昨日の土曜日は金曜日に到着した3点の書籍の中からコンノケンイチ氏の本を読むのに費やし、半分くらいまでを読み、さらに巻末にある著者と副島隆彦氏との対談を読んだ。

この本はアインシュタインの特殊相対性理論とビッグバン理論と、ホーキングの宇宙論を批判し、否定し、さらに著者独自の理論を展開した本であるが、特殊相対性理論と一般相対性理論を批判し、否定した本は昔、何冊か購入したことがある。まだパソコンもインターネットも普及していない頃だったが、少なくとも3冊ほどこの種の本を購入して、大雑把に読んだ経験がある。当時、コンノケンイチ氏の本も書店の店頭で何度も見ていたが、何故か、購入することはなかった。その後はあまりこの方面のことに興味を持たないようにし、この問題でそんなに何冊も本を購入する気もなくなっていたからかもしれない。ただ、この機会をきっかけに、特殊相対性理論が崩壊することに期待する気持ちを持ち始めたことは確かである。

という次第で、発刊のニュース以来、何れ購入するつもりでいたにせよ、先日注文することになった直接のきっかけは、もちろん、最近、多くのマスコミで伝えられた処の、高速を超えるニュートリノ粒子が発見されたとされるニュースである。今回このニュースが主要マスコミで伝えられ、世界的に話題になった理由の1つは間違いなく、この研究がCERNの大型加速器関連で行われた世界的な共同研究グループの研究と発表であったからだろうと思う。もしも、こういった発見が別の目立たないところで行われたとすれば、こんなにマスコミで取り上げられることはなかったのでは無いだろうか。

かつて読んだ何冊かのこの種の本を含め、この本の内容や最近の発見のニュース記事などの印象やそれらを読んで考えたことなど、また、別の場所でまとめてみたいと思う。ただ、1つ、今回改めて強く思い起こしたことは次のことである。カッシーラーの哲学ないし科学思想(すなわち、シンボル形式の哲学など)は今後、このような問題に係り合うに際しても、増々重要性を持つようになるのではないか、ということである。できればコンノケンイチ氏や対談をしている副島隆彦氏がカッシーラーの哲学についてどのように考えておられるか、あるいは考えられるかを知りたいものである。

もうひとつ、最初の「西行」に戻ってしまうが、この本で西行が平泉の藤原秀衡の下で義経に会っていたという話を始めて知った。会ったという証拠があるわけではないそうだが、状況から考えて会っていたに違いない。それにしてもこれまでに見たり聞いたりした義経の物語やドラマで義経と西行との邂逅の場面を見たことが無いのは何故なのだろうか、とふと思った。それで良いのかもしれないが、そういうことがあっても良いのではないかと思う。小説ではあるようだ。

何故か最近、義経のことが気になりだした。何故か、と書いたが、きっかけはある。去年だったか、義経伝説をかなり詳しく取り上げたブログ記事に遭遇したからである。http://intec-j.seesaa.net/category/8271869-1.html
このブログ記事では義経=ジンギスカン説とともに義経=清朝祖先説がかなり詳しく説明されていた。個人的にこういう諸説を多少とも具体的に知ったのは始めてであったので、この時には強い印象を受けた。それ以来、義経伝説も頭から離れない事柄の1つになっている。このブログの著者自身は、義経は少なくとも北海道までは落ち延びたということに80パーセントの信ぴょう性を感じているとのことだ。先ほどの相対性理論の問題などとは全く別の問題には違いないが、これもアカデミズムと諸説との関係という共通項はあるといえばある。

最近の読書体験という括りで、日記風に脈絡もなく書き連ねてきたが、日記のつもりでついでにもう一件、メモしておこう。今、最近リリースされたCDで、ピアニスト、バドゥラ=スコダがベートーベン作曲当時のピアノを用いて録音したピアノソナタ全集9枚組のボックスを購入したくなったのである。しかし3万円近くという価格に躊躇している。欲しい理由は3つある。一つは今だにベートーベンのピアノソナタ全曲を聴いたことがなく、全曲を聞きたいという思いは前からあった。次の一つは、フォルテピアノと呼ばれる旧い形式のピアノの音が好きだということ。ただ、ベートーベンの音楽をフォルテピアノで聞きたいとは思っていなかった。特にフォルテピアノの音色にとりつかれたのはシューベルトとシューマンの歌曲伴奏の音の美しさに魅了された時からだった。それでも幾つかのレビューを見てみるとフォルテピアノによるベートーベンも良さそうである。後の一つはバドゥラ=スコダというピアニストに信頼がおけること。このピアニストの演奏では、昔、LPレコードでシューベルトのピアノ曲のレコード1枚か2枚を購入して好感をもった以後、ラジオで何度か聞いたことがある程度である。これまで演奏批評とかレコード批評で、彼のベートーベン演奏の話題を見たり聞いたりした記憶がない。しかし信頼できるピアニストだと思えるし、ネットでレビューを見ても評判がいい。

・・・・・それにしても現代の日本人は忙しく、お金もかかる。一方で古典の西行も読まねばならず、一方でベートーベンを聴かねばならず・・・・。

「意味の周辺」記事

自然とエネルギーの意味論

自然とエネルギーという二つの言葉が飛び交っている。端的に言って「自然エネルギー」という熟語が飛び交っているが、キーワードとしては「自然」と「エネルギー」という二つの言葉として分析される事を、言葉自体が望んでいるかのように見える。とりあえず、「エネルギー」という言葉、概念について・・・。

(日常語あるいは政治経済的用語としてエネルギーという言葉は「エネルギー資源」と「動力源」との二つの意味で使用されているということ)

エネルギーという言葉は、歴史的にはともかく、現在では基本的に、日常語としても、物理学的な用語での意味が基礎となっているように思われる。非常に抽象的な概念だと思うが、更に抽象的に、哲学的な意味あるいは神秘的な意味を持たされる場合もあると言える。とにかく最高度に抽象的な言葉である。このエネルギーという言葉が日常語として、特に政治経済用語として盛んに用いられる用になったのそんなに古いことでは無いのではないだろうか。はっきりと記憶しているわけではないが、石炭や石油、或いは電力等の意味でこの言葉が使われるのを始めて体験したときには少し違和感を感じたような印象をもっている。今は誰もが極めて普通にこの言葉を使ってはいる。

つまり、エネルギーという言葉を燃料という意味で使っている訳である。しかし今は電力が活躍する時代であり、電力には水力も使われるので燃料を普遍的に表現するという意味でエネルギーという抽象的な言葉が使われるようになったのであろう。しかしエネルギーでは抽象化しすぎであるように思われる。最も適切な言葉は「エネルギー資源」であろう。要するにそこからエネルギーを得るところの資源である。エネルギーは修飾語であり、主体は資源である。資源というかなり具体的なものにエネルギーという最高度に抽象的な言葉を当てているところに違和感を感じたのでは無いかと思う。

しかしエネルギー問題におけるエネルギーのすべてがエネルギー資源の意味で使われているかというとそうでもない。エネルギーを取り出す資源を意味すると共に、取り出して使用する、更に具体的なエネルギーそのものに対しても使われていると考えられる。つまり、エネルギー資源ではなくエネルギーを消費する直前のエネルギーの状態を指す場合がある。電力そのものとか、自動車に使うガソリンとか、アルコールどか、家庭で使用する都市ガスなどである。都市ガスなどは殆ど元のエネルギー資源そのままである。

以上のとおり、エネルギー問題においてエネルギーと呼ばれているものには二つの意味があるのといえる。ただ実際のモノとしては同じものを指している場合もあるので、このことに気づきにくいのである。

一方の、エネルギー資源の意味でのエネルギーについて考えて見よう。前記のようにエネルギーという言葉がエネルギー資源のことを指していることに気がつけば、最近の政治経済上の焦点ともなっている「自然エネルギー」なる用語のおかしさにはすぐに気付くはずである。そもそも天然資源はすべて自然に由来する。エネルギー資源も同様である。先に例をあげた天然ガスなど、殆ど採掘されたそのままの状態で家庭に運ばれてエネルギー源となっている。風力と太陽光が自然で、天然ガスやいわゆる化石燃料が自然ではないとする区別する必然性は全くない。風力と太陽光を共通して特徴付ける要素があるとすれば、気象に由来し、左右されるという意味で気象エネルギー資源とでも言うべきだろうと思う。

自然と人工的あるいは人為的との区別が有効であるとすれば、それはエネルギー資源ではなく他方の、「エネルギーとして消費する直前のエネルギーの状態」の意味で使われる場合であろう。このように考えると、電力エネルギーはすべて人為的である。そもそも自然には電気エネルギーとして取り出せるものとしては雷ぐらいしか考えられない。雷を電力として利用しようなどと考える人はいないだろうから資源とは言えない。

電力以外の殆どは燃焼エネルギーであって、燃焼の工程が人為的であるとすれば、これも人為的エネルギーとなる。この意味で自然エネルギーといえるのは力学的エネルギーを粉ひきにそのまま利用している風車とか水車ぐらいで、現在では無視できる程度のものである。事実上、現在では、消費する直前のエネルギーはすべて人為的だと考えて良さそうである。

なぜ、発電向けエネルギー資源としての風力や太陽光が自然エネルギーと呼ばれるようになったのか、これを分析するには「自然」の意味論を展開しなければならない。簡単に済むよな問題ではないが、何となく、前回を含めてこれまでこのブログで取り上げてきたようにエコロジー思想が大きく関わっていることは想像がつく。すでに言ったことの繰り返しにすぎないが、科学と信仰あるいは宗教と政治ビジネスが複雑に絡み合っている問題であることは容易に想像がつく。

― 以上、とりあえず今回はエネルギーの意味の一端について考察してみました。

「意味の周辺」記事

内田樹×中沢新一×平河克美著「大津波と原発」を読んで

表記の本を購入し、先の週末に読み、今日ざっと繰り返して再読した。この4月5日にラジオ放送された鼎談に加筆修正された本であるとのことで、私は普段あまり新刊本を買う人間ではないのでこのような緊急出版という類の本は滅多に買わないのだが、この本を買ったのは第一に薄いペーパーバックで安い本であったこと(とは言っても収益の一部を被災地に寄付とのこと)もあるが、主に次のような理由による。ひとつはこの本の複数の著者に一定の関心があった事、もう一つは目次を見ると「エコロジーを超えて」という表現があり、それが気になったからである。というのも最近エコロジーについて考える事が多く、当ブログの前回記事でもエコロジーについて触れたからでもある。そういう事もあって、エコロジーの大家とも言える中沢氏がどのようなことを発言をされているかに興味が持たれたのである。

中沢新一氏の本は一冊半ほど読んだことがある。一冊というのは「チベットのモーツァルト」で、その感想は当ブログの初期にも書いたように、比較的近年になってのことで、文庫本が出ていたからでもある。もっと昔、中沢氏の新刊書を幾つか購入したり書店などで手に取ってみたことは何度もあるが、どうも難解で馴染めず、読み通せなかった。ただ、最近では南方熊楠に関心をもつエコロジーの喧伝者でもあるという印象が強かった。私自身はエコロジーに関心はあったものの、敬遠していたが、初期のチベットのモーツァルトをとにかく読み通し、難解ながらも一定の深い印象を与えられたことがあり、改めてその著者にも関心を持つようになっていたというところだろうか。

内田樹氏の本は一冊も読んだことは無かったが、断片的な文章はネットその他の媒体で読んだことはあった。中沢氏とは反対に、比較的平易な文章だと思っていたが、逆にそのために敬遠していた面がある。しかし人気の高い人であるだけに気にはなっていた。

この本を読む契機については以上の様なところである。そして読後の結果だが、興味深い論点あるいは思想的な断片とでもいうべきものがいくつかはあるが、一言で言って失望の方が大きかった。最後の方になるとむしろ不愉快にさえなってきたのである。

まず、対談だから仕方のない面もあるが、かなり軽率でいい加減な発言や意識が感じられた。例えば次のような発言がある。

中沢:原子力の開発の初期、放射性物質の研究をおこなっていたころのこと、キュリー夫人は身をもって、というか手づかみで実験して、最後は全身ガンだらけでなくなったそうですよ。
内田:そうでしたねえ。


キュリー夫人の娘が書いた彼女の伝記が今も手元にあったので確認して見たが、死因は赤血球と白血球が減少する貧血の一種で、骨髄の機能が放射線の影響を受けたのだろうということであった。ウィキペディアを見ても再生不良性貧血とあり、放射線の影響が疑われていることは確かであるが、全身ガンだらけというのは不適切というより、間違いというべきだろう。ラジオ放送の対談でもあり、多少は大まかな記憶をしゃべってしまうようなこともあろうが、一応後から加筆されている筈であるし、第一、問題が本書の基本テーマにも関わる内容である。私自身はちょうどこの対談が行われていた頃、キュリー夫人のことを思い出し、ウィキペディアで調べていたのである。私は他の大多数の人達と同様、職業学者でもなく、当然中沢氏のような思想史上の豊富な知識もないし、影響力もない。そういう殆どの人間にとってやはり気になるのは同じ科学でも核物理学よりも放射線医学の方であろう。そして私の場合、主としてインターネットに限られるが、低線量放射線のリスクの問題について多少の専門的な論文を含めて読んで見たのである。それは筆者の別のブログhttp://d.hatena.ne.jp/quarta/に報告している。これらの資料に当たってみて気付いたことは、私たちはいままで如何ににこの問題に付いて漠然としたイメージでしか知ることがなかったのかということに気付かされたことだと思っている。漠然としたイメージで単純に放射線は怖い、人間には相容れないものである、といった印象を持っていただけで、数値的なデータなどの具体的な事については何の知識もなかったのである。本書読後の印象では、著者の三氏ともにこの点では以前の私とそう変わらなかったのではないかと思われる。だからこそ、キュリー夫人の最後についてあのような思い違いをしていたのであろう。私自身にしても昔読んだ伝記であるから正確に記憶していたわけではないので、この機会に確認することがなければ、人に聞かれると中沢氏と同じような軽率な話をしたかも知れない。

これと関連するが、本書の初めのほうで中沢氏はこの頃「ずっと東京にいて原子核物理学の本を沢山読んでました。ですから気分的には、もう最前線にいたんですけれども。」と発言している。原子核物理学の本を沢山読むなら放射線医学の本はなぜ読まなかったのであろうか?と思うのである。もちろん読まれたのかも知れないが、放射線医学に興味をもち、キュリー夫人の話が出てくるくらいであれば、キュリー夫人の死因について調べ直すくらいのことは当然のことだと思えるのである。

中沢氏にしてみれば今回の原発問題をどうしても思想の問題として捉えなければならず、許容値とか閾値といった具体的な問題にかかずらうのは次元の低いことに思えたのであろう。「思想」の問題にするにはどうしても核物理学という高度で物質についての根源的とも言える学問分野でなければならなかったのだろう。しかしこの問題は国民の健康に関わる重大な問題である。「思想」にも影響を与えかねない問題なのである。

本書では確かに思想的に興味深い視点や論点が幾つか提示されている。後でそれについて私なりに検討しなければならないのだが、本書の最後の方で、思想の帰結という事になるのだろうが、その思想を実現する現実的な対応ないし行動という問題に及んでくると、「綠の党(みたいなもの)」の結党が提案されることになり、その内容はといえば、最初の方で暗示的に批判されていたとも受け止められる処の、現行の原子力と自然エネルギーとの二者択一の枠組みでの自然エネルギーを選択するという、現在巷間とネットを賑わしている論調に落ち着いているのである。それが技術的、経済的な合理的な根拠も示されずに提案されているところは、昨今の普通の(学者ではない)ジャーナリストや活動家や著述家らの主張、提言、提案と何ら変わるところがないのであり、ただ、自身がこれまで(そんなに本格的にでもなく)運動を進めてきたということを背景に、技術的・経済的な根拠も示さずにただ太鼓判を押すだけというのも同じなのである。「孫正義さんにお金を出して貰いましょう」という発言が飛び出してくることまでも全く同じである。

さて、その問題の「思想」については回を改めて検討して見たい。本書を読むことになった主な動機が中沢氏のエコロジーに対する考え方の変化についての興味にあったわけで、その点では期待どおり、エコロジーを中心に展開されていると言える。しかし、重要な点で、私の期待しているような方向とは基本的に正反対のようだ。

・・・・次回に続く予定。
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