4つのテーマ別ブログ記事の更新情報に加え、テーマ外の脈絡のない内容をつぶやきのように綴っています。以前のタイトル「意味の周辺」は2011年12月以降、http://imimemo.blogspot.com/ にて更新を続けています。「意味の周辺」該当記事に対するコメントはhttp://imimemo.blogspot.com/ の該当記事に投稿して頂ければ幸いです。

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つぶやき

「自然界における左と右」―区立図書館にて―とりあえずメモ

しばらく前、よく行く近所の書店の狭い科学書コーナーに、「自然界における左と右」という本が棚に並んでいるのに気がついた。この書名はよく記憶に残っていた。というのはもうかなり昔、多分20年以上になると思うが、当時購読していた朝日新聞でこの本の書評を読んで以来、ずっと記憶から消えずにいたのである。それでも買うことはなかったのだが、それが再刊されたのだ。数年前から鏡像問題に関心を寄せるようになり、かなり深入りしているともいえる現在、この書名を思い出すこともしばしばだった。手に取ってみると、著者名はガードナーという人で、この名前を見て更にハタと思い当たることがあった。というのも鏡像問題関連の文献に必ず出てくるGardnerの著作はこの本のことであったのかと、初めて気づいた次第なのだ。さらに翻訳者が著名な地球物理学者でもある。こうなればもう、買わないわけにはゆかないか、と思ったのだが、しかし三千円を超える高価な本である。書評を読んだときはこんなに大部で高価な本であるとは思っても見なかったのだが。そういう次第で買わずに時々その書店に立ち寄った際に眺める事はあったのだが、近くの図書館にないだろうか?と数日前に、しばらくぶりに行ってみたが、そこの書架にはなかった。

今日、予定していた仕事量が予想よりも早めに終わったので、この本が都や区の図書館にあるかをネットで検索してみた。都立図書館は遠いし、手順が面倒。今は千代田区に移管された日比谷の図書館にあったが貸し出し中、しかし区の、歩いて行ける距離にある某図書館で閲覧可能状態にあることが分かる。こうしてネットで調べてゆくのは初めてだが、便利になったものである。そこで夕方5時ごろから歩いて出かけて行った。確かにその本はあり、1時間程をかけて最初の三つの章を読んでみた。この第三章の終わりに鏡像問題についての結論が書かれている。

この結論、一言で言って間違いとは言えないと思う。しかし、緻密な考察とは言えず、包括的でもない。また概念が十分に明確指されていない。やや大ざっぱで論理に飛躍というか隙間がある。それはおそらく著者にしてみるとこの問題があまりにも日常的で発展性のない問題に思われ、同じ「自然界における左と右」の問題としてももっと宇宙論や理論物理学、化学や生物学の理論的な問題にも関わる難しい問題にくらべて取るに足らない問題と考えていたせいであろうと思われる。

これは著者がこの問題を認識論の問題として、また心理学の問題として深く考えようとしていなかったからではないかと思えるのだがどうだろうか?この問題を深く考えたところで物理学や化学や生物学など、主要な現在の自然科学分野の問題、研究に貢献するところはないと考えていたからではないかと思えるのである。しかし、著者がこの問題を言語の意味との関連で考察していたのはさすがと思わせる。言語的意味と深く関わるのであれば、なぜそこをさらに深めようとはしなかったのであろうかとも思う。そのあたりに大ざっぱさと不徹底さが潜んでいるように思われる。

最初の30ページほどだけの感想だが、この種のサイエンスライターと呼ばれる人たち特有のくせも多い本である。というのは何かと擬人的な説明を必要以上に使っているのがどうも気に入らない。たとえば一次元の生物とか、二次元の生物を想定して、彼らが鏡を見てどう認識するか、といったような説明が多いのだが、何もことさらそのような擬人化をせずとももっと端的でわかりやすい説明がいくらでもあると思えるのである。

とはいえ、基本的に興味深く優れた本であると思うので、いずれ借り出して全部を読みたいと思っている。

それにしてもなぜ、この興味深い本を買うことにこう躊躇し続けるのだろうかと思う。高価な本だが、これ程の価格の本を買う習慣がなかったわけではない。本ではこれまでも結構、ムダ遣いもしている。つまらない本を二三冊買うことを思えば何のこともないのだけれども、どうも近頃の気分的なものからきているようだ、この時代的気分、不景気で気が滅入りがちな状況に加えて個人的に年を重ねてしまったことももちろん関係している。すでに書いてしまったように、最初に書評を読んでからもう20年以上も経っているのである。しかし何と言ってもやはり、もう嵩張るものはあまり持ちたくないと言うのも本音ではある。近頃はどのような分野でも文庫本以外はめったに買わなくなった。とはいうものの、電子書籍で済まそうと言う気にもなれないのである。
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国会図書館行き ― 前回から十数年振りかもっと昔かも

記事にするほどのことでもないが、日記代わりに文字通りつぶやき。
以前来たのは十数年前か、あるいはもっと以前になるだろうか。当然ブログなどはやっていないし、パソコンも使わない時代だ。しかし確かワープロは使っていたと筈だ。それはさておき、経験はあってもやはり、こういうところに行くのは億劫である。しかし、地下鉄の初乗り区間内で、歩いて行けないこともない距離にこういう場所があるのはありがたい限りである。5時頃に自宅を出て、一応の目的を果たして7時半に帰ることができた。

手続きと要領は前回と基本的に同じだが、当然、コンピュータ化されているところは違う。普段パソコンを使っていない人には難しいだろう。

最初本館玄関から入ったが初回登録は新館でといわれ、いったん外に出て新館で登録手続きをする。その後は、後で考えればそのまま新館で入室すれば早く済んだのだが、それに気付かず、本館に戻って入室する。入室してパソコンで目的の雑誌を申し込んだのち、受取りは新館の雑誌カウンターということで、この時も新館と本館とがつながっていることに気付かず、いったん外に出た後に、新館に入りなおし、再び入口に立っている案内人の説明をうけて入室口から入室して雑誌カウンターで雑誌を受取った。この新館と本館との構造は以前来た際と全く変わっておらず、以前来たのはつい最近であったかのように思い出すのも不思議な気がする。それでも実際に来て手順を終えるまで、気が付かなかったいう次第である。雑誌を戻した後、帰る際にトイレに寄った後、いつもの方向音痴で元の入室口には戻らず自然に本館の方に歩いて行き、本館とつながった、というより殆ど同じ建物と言っても良いくらいに一体化した本館の入室口から退出することになった。この時、初めて本館と新館とがつながっていることを思い出した次第なのである。しかもつい最近であったような気がするのは館内が古びずにきれいな状態が保たれているからだろうか。当然設備やカウンターなどの内装など、新しくなっている筈だが、それにしても机にしても椅子にしてもすべて新しくきれいで、古びているものは殆ど見当たらなかった。

登録してもらったカードは3年間有効だと言うことだが、おそらく有効期間内にも期間を過ぎてからでもまた来ることはなさそうだ。残念ながら。閲覧した雑誌は最新号で当然といえば当然だが、まだ誰も見ていないと思われる新しさであった。国会図書館にこの種の雑誌を見に来る人はどれくらいいるのだろうか。たいていの場合は別の場所と手段で閲覧されている筈だが、当方のような状況の人間も他にいないとも限らない。当然、分野にもよってもずいぶん異なることは間違いがない。

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灰色の馬は葦毛ということを始めて知る

来年が午年であることを知ったのはつい数日前のことだった。ちょうど先々週だったが偶然、某大学の馬術部の前を通った折に乗馬の様子を眺めた時は、まだそれを知らなかった。構内で少人数だったので少々気が引けたが、遠景なのでいいだろうと思って携帯カメラで撮影したのは前回の写真記事のとおりだが、来年が午年とわかると、やはりその偶然が少々嬉しい気持ちになる。灰色の馬で珍しく思ったがなかなかきれいに見えた。

一昨夜だったがオンデマンドで珍しく馬術競技の番組を見たときにも一頭、灰色の馬がいた。こちらはかなり斑であまりバランスの良い模様には見えなかったが、結構灰色の馬もいるものだなと思いながらもこの番組を見終わった。乗馬や馬術は今はスポーツだが、この種のスポーツは今後どうなってゆくか、興味があるところだ。流行するか逆に廃れるか。

昨日の午後、ラジオを聴き始めたとき、ちょうど松尾貴史さんのトーク番組が終わるところだったが、その日の対談は馬がテーマで、対談相手は馬の専門家と草野仁さんであった。馬の話なら最初から聞けばよかったなと思い残念だった。と言っても当方はもともと馬にも競馬にも関心があったわけでもく、最近ちょっと馬を眼にしたり話題に触れたりで単に思い出したという程度に過ぎない。

しかし何故か灰色の馬が特別印象に残っていたのだろうか、ネット検索で灰色の馬を多少調べてみると灰色の馬は葦毛の馬ということを始めて知った。ウィキペディアにも結構いろいろと項目が出ている。ただ、なぜ葦毛というのかはどこにも書いていない。もっとも、馬の毛色というのは結構複雑で、葦毛だけではなく色々と難しい漢字の名前が付いている。全部を説明するわけにもゆかないだろう。もちろん複雑なのは馬だけでもないだろうが。

遠い将来、大げさに言えば人類の未来、馬がどのように人間社会と関わることになるだろうか?再び馬が交通手段になるようなこともあり得るだろうか?そんなことを考えるのも結構面白そうだし、重要な契機になるかもしれないなどと考えた次第。

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明日の行き先

明日は何事もなければ府中市美術館のウィリアム・モリス展に行く予定。特にウィリアム・モリスに強い関心があるわけではなく、11月で使用期限が切れる西武鉄道のフリー切符を残していたので、それを使いたいがためでもある。そのために最寄りの駅ではなく、国分寺駅から3キロほど歩かねばならない。初めてなのでグーグルマップで調べてみると、片側一車線で歩道がなく、車の通行量も多そうで、自転車も良く通りそうな印象。眺めも予想していたような風光明媚さはなく、かなり建て込んだ地域のようで、楽しく歩けそうな感じはしなかったが、まあ、言ってみなければわからない。もちろんウィリアム・モリスに全く興味がなければいかないが。

実はこの秋にはある友人と白洲正子夫妻の武相荘という記念館に行こうかという話になっていたのだが、今年は実現しなかった。明日はその代わりのような形になった。その友人とはやはりその代りのような形で、先日、島根県主催、三重県、奈良県、宮崎県共催「古代歴史文化賞決定記念シンポジウム・日本の始まり」という無料で参加できるシンポジウムに行った。彼は等方から見ればプロ並みかと思える歴史通なのだが、出席者の学者先生方を知っているという程ではなかった。終わった後の印象は悪くはなかった。参加者全員が本音を交えた誠実な議論を行っていたように思われた。古代歴史文化賞の受賞者は大阪大学名誉教授の都出比呂志氏で受賞した本は岩波新書『古代国家はいつ成立したか』。『古事記を読み直す』でみやざき賞を受賞した三浦佑之史は見覚えのある風貌だったが、すぐにNHK番組『100分で名著』で古事記の解説をしていた人であることに気が付いた。シンポジウムの司会は草野光代さん。あと、テレビで時々見かける川合郁子さんを中心としたコンサートが提供された。尺八、シンセサイザーとピアノに加えて拡声器付きの大音響であった。以上。


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日本人とキリスト教 ― 井上章一著。なかなか良かった。

一月ほど前くらいだったか、角川ソフィア文庫という文庫本の新刊でこの本を書店の平積みで見つけてすぐに購入した。原書は2001年5月の刊行だそうで、カバーの表紙絵は見たことがあるような気がする。今回の文庫本は10月25日発行で、平積みで見つけた時は一冊だけが残っていた。結構速く売れているような印象。先日別の書店に行ったら、また沢山積んであった。厚さも200ページくらいと手ごろだし、何しろ読みやすく退屈しない文章を書く人の本だから、仕事があるときにでも合間に読むにはちょうど良い本なのである。とはいっても端正で美しい文章とは言えず、癖があってそれは好きではないが、言葉とはそんなもので、内容があって読みやすいのだから満足すべきか。

その内容だが、二、三冊だけだが読んだことのあるこの著者の他の本に比べても、優れたものになっているように思う。もちろん気に入らないところや、部分的にどっちつかず、中途半端、非徹底、妥協的、といった不満点はあるが、最終的には一つの立派な結論に到達しているように思う。宗教と文化の広がりについての一つの見方である。そのあたりを最終章から二、三のフレーズを抜き出してみたい。

― 世界を一つの文明圏だとみなす観念が、かつてはあった。日本のみならず、ヨーロッパにおいても、である。今それがないとは、言わない。しかし、今日では、互いの文化を独立的に評価する史観が、大勢を占めている。

― あえて推量で書くが、ふるい歴史観は、民族主義の高揚によって圧倒されたような気もする。第一次世界大戦をさかいに、世界各地で民族自決論が、唱えられだした。

― 文化伝播論は、この趨勢になじみにくい。

最後の方は結論というよりも問題提起というべきかもしれないが、確かに留意すべき重要な問題提起だと思う。

ともかく分量も手ごろで読みやすく、内容もあり、人にも勧められる一冊だと思います。

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