4つのテーマ別ブログ記事の更新情報に加え、テーマ外の脈絡のない内容をつぶやきのように綴っています。以前のタイトル「意味の周辺」は2011年12月以降、http://imimemo.blogspot.com/ にて更新を続けています。「意味の周辺」該当記事に対するコメントはhttp://imimemo.blogspot.com/ の該当記事に投稿して頂ければ幸いです。

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心理学的問題と意味論的問題 ― 前回記事の捕捉

ブログ「意味の周辺」を更新しました。前回記事のちょっとした補足です。
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年末年始の夜景 -不忍池と神田明神

新年おめでとうございます
今年が良い年になりますように・・・

さて、年末と年始の今日、撮影した写真を掲載します。いずれも夜景で年末には不忍池、年始には初詣で賑わう神田明神です。

もう去年になってしまったので先日というのもおかしいですが、ちょうどクリスマスイブの日、そんなことも考えずに夕方、上野まで歩いて行き、不忍池のほとりを通って行ったところ、ひとつの場所に10人ほどが佇んで何かしています。近づいてみると、遠くに見える東京スカイツリーが始めてライトアップされたのを携帯電話で撮影していたのでした。ちょうど私も最近携帯の機種変更をし、そのカメラの性能が格段に向上したところでしたので、何ヶ所かで場所で撮影してみました。

KC460041bupl.jpg

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後で聞くとスカイツリーに点灯された照明は青だったそうですが、記憶では白でした。こうして写真を見ると、最初に撮った上の二枚は白に近く見えます。その後で撮った下の、弁天堂の遠景に写った写真では青く見えます。途中で色が変化したのでしょうか。

KC460046bupl.jpg

弁天堂はLEDではなく白熱電灯で下からライトアップされていますが、金色に見えますね。

KC460036bcupl.jpg

何れにしても東京スカイツリーは昼間見るより、夜間に見るほうが美しいようです。どちらも東京タワーよりは美しいと思います。東京タワーのライトアップは(個人的には)あまりぞっとしないです。

KC460039bupl.jpg

西側の不忍通り

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大きな赤いネオンサイン「東天紅」は明るすぎて白っぽく見えます。
下の明るいところは上野駅前通り

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以下はいずれも本日夕方の神田明神です。

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タブレットPC用の辞書を購入してみた ― ブログ更新情報

ブログ更新情報です。― http://takaragaku.blogspot.com/
タブレットPC用の辞書を購入してみた

このブログサイトではタブレットPC関連の記事を2回ほど書きましたが、その続きです。

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坂の上の雲を一通りみました

NHKのドラマ、坂の上の雲をひととおり、一応最終回まで見ました。全体として一応、原作の気分、といったものはでていたように思います。原作自体はどうなのかという問題はさておいてのことですが。また俳優の演技とか演出の巧拙とかいったものも度外視した上のことですが。

原作者の一番、というか内心というか、本音で言いたかったことは、結局のところ、時代の気分、というか、雰囲気のようなものではなかったのかなという印象があります。つまり、歴史認識とかそういった固い、あるいは政治的なものではなく、感情的な、あるいは心情的なものではなかったのかなということです。

明るさと暗さ、希望と絶望、悲喜こもごもといった、矛盾に満ちた明治という時代の気分というようなもの。そう考えるとつまるところ今の時代も同じことのなるのかも知れませんが。

まあこういうことも考え出すときりがありませんが。

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宮沢賢治の回答

おとといの夜、NHKのテレビ番組「100分で名著」で宮沢賢治の銀河鉄道の夜を取り上げた特集の最終回、出演のロジャー・パルバースさんがつぎのような事を語っていた。

賢治は、何故わたしは私であって、あなたや彼ではないのか?という疑問をもち、それへの回答として、わたしは彼やあなたでもある、彼やあなたは私である、という結論を得たというのである。

賢治がどこでそのような事を言った、あるいは書いているのかについては言及がなかったが、恐らく本当にそう考えたのだろう。

「なぜ私は他の人ではなくただ一人のこの私なのか?」というこの狂おしい疑問に捉えられたことのある人はそんなに稀なわけでもないように思われる。これは論理的な疑問というよりも感情に近いものである。

そしておぼろげながらも、あるいは無意識的にも賢治の認識に近いところまでいった人もさらに少ないだろうが恐らくそれほど稀ではないだろうと思う。

しかし、そこからさらに進んで賢治のように、そして賢治のような方向に思索を進めて創作や行動に発展させた人は稀なのだろう。
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